お話の3 野良犬のグレハム

ノラ犬のグレハム     20174月 長倉正昭


僕はノラ犬のグレハムです。


この話は天国からしていて、僕が話すことを生きているとき飼い主だった長倉正昭さんが記録してくれる、というので話をはじめる。


僕は官の倉山という山の中で生まれた。

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野良犬の母親に双子で生まれた兄弟と一緒に育てられた。 僕はその頃は野良犬という言葉も知らなかったし、だから母親や自分が野良犬とは思わなかった。僕たちは母親と双子の兄弟の3匹だけの家族で地面に掘られた穴蔵に住んでいた。

その穴蔵はもとはウサギの掘った穴で、ウサギを追い出して僕らが住んでいると母親に聞いたことがある。母親は強くて優しかった。乳離れしてからは、もぐらやハクビシン、時にはウサギやアライグマまで運んで来てくれた。


ただ、ひとつだけとても厳しい掟があった。


その掟というのは、「人間が来たら、決して声を出さない」という掟だった。

これは少し成長してから母親が話してくれたことだけど、「人間というのはとっても怖い動物で、見つかると、捕まえられて、連れていかれ、殺されてしまう」ということだった。


でも乳離れするか、しないかの頃にはそんなことを言われてもわかるわけがない。その事は母親も承知の助で、僕たちには何の説明もなく、人間の声や足音が聞こえただけで、もう一言も話せないばかりでなく、息すら潜めて、穴蔵の奥の方に潜り込むようにしつけられた。

いつもは強くて優しい母親が人間の声や足音がすると怯えた表情になり、それを見ると自分も怖くなった。そして怖さのあまり、キュンキュンと哭いて母親にすりよると、母親は普段見せたことのないような険しい顔になって、噛みつかれた。

そんなことが何回か繰り返されたのだと思う、僕は人のかすかな足音や声を聞いただけで、ピタリと声を潜めて、息を殺すようになった。これは僕の双子の兄弟も、同じだった。

僕たちがこのような掟を守るようになってからは、母親は険しい顔も見せなくなり、平穏な日が過ぎていった。

これは後に僕の飼い主になった正昭さんから聞かされた話だけれど、僕たちが住み始める前はこの山にゴルフ場の建設工事がされていて、それが、相当進んだ段階で中止に追い込まれた。この山の麓に住んでいる正昭さんを含む小川町の有志がこのゴルフ場の建設反対運動をしていたので、中止になったことはとても嬉しかったという。中止になったのはこのゴルフ場にまつわる資金繰りの問題に、バブルの崩壊が追い討ちをかけたのが大きな理由でゴルフ場建設反対運動は、その建設を遅らせることによって、影響を与えたかも知れないというのが正昭さんの見解だった。

こういうことは僕が天国にいる今だから理解できるけれど、当時の僕がそんなことをわかる訳もないし、そんなことはどうでもよかった。 ゴルフ場が建設した道が山の中を巡っていて、それが、地元の人達の散歩コースになっていた。

そんなに大勢の人達が来るわけでない。毎日十数人位だったかな? 正昭さんは毎日のように来ていた。正昭さんの奥さんの輝代さんや子供たちも時々は来ていた。僕たちはそれを見ていたけれど、正昭さん達は僕たちのことは気が付いてはいなかった、と思う。何しろ人間の足音や草をかき分ける音がすれば、それは遠くの方からでも分かるので、僕たちは穴蔵の家のそばにいれば、家の中に駆け込んで、奥の方でじっとしているし、外に出歩いているときなら、林の中に逃げ込んだり、草の中に身をひそめたりして息を潜めているので人間は僕たちには気がつけない。 少し言わせてもらうと、人間から隠れるこのようなやり方は野良犬だけじゃない、猪もアライグマもハクビシンもウサギも鹿もしている。だからこの野性動物達は人間を見ているけれど、人間には野性動物の姿が見えないようになってる。人間はこの事にあまり気付いていないみたい。

もっとも最近は小川町では野性動物が増えてきて、猪が堂々と人家の側に現れて、人に見られても逃げないとか熊が出たとかいう話も聞くので野性動物と人間の間柄も変わってきているのかな~?

だいぶ横道にそれてしまったね。 さて僕の話に戻ります。 僕たち兄弟が人間からの隠れかたを身に付けたので母親はカリカリしなくなったけれど別の問題が出てきた。それは僕たち兄弟が成長して食べる量が増えてきたこと。母親は前より頻繁に外に出て獲物をとってこなければならなくなった。それは母親がとってきた獲物を僕たちがすぐに食べてしまい、またねだるからだった。でも僕たち仔犬にも母親が痩せほそってくるのがわかってきた。そして自分達もひもじい。

自分達で食べ物を見つけなければならない時が来たことを覚った。 それから僕たちも外に出て狩りをするようになった。狩りといってもぼくたちが捕まえられるのはネズミかもぐらだったけどね。

ある時、山を巡る散歩コースになっていた道の端にもぐらの潜った穴を見つけて兄弟でもぐらを掘り出そうとして土を掘っていた。その時突然近くで人の声がした。驚いてとっさに近くの茂みに隠れて息を殺した。


「おかあさん、犬がいるよ!」 「あら、本当! 野良犬だね。こっちにもいる。つれていこうか。」 「つれていこう!」 輝代さんとその子供の声だった。

当時は人間の言葉は聞こえても意味は分からない。ただ自分達のことを指してなにかを言っている、ということはわかった。僕たちは緊張のあまり逃げることもせず、ますます身を固くして、うずくまっていた。 そしてたちまち抱き抱えられてしまった、僕は輝代さんに兄弟は子供に。

僕は抱き抱えられてすぐには恐ろしくてブルブルと震えていた。でも輝代さんの身体から温もりが伝わってきて少し緊張が解けてきた。 それは母親の温もりに似ていた。 しばらく山道を下ると輝代さんの家についた。

ここから僕の長倉家での生活が始まります。なお兄弟分はじきに長倉家の知り合いの原瀬家に引き取られます。

僕はグレハムという名前がつけられて、長倉家の玄関に繋がれて飼われることになった。

長倉家は子供が5人いて、皆、学校というところに行っていた。またご主人は正昭さんで会社というところにいっていた。それで昼間は静かでしたが、夕方になると子供達が次々と学校から帰ってきて賑やかでした。みんなよく撫でてくれたりした。

はじめのうちは撫でられるのも怖くて固くなっていたけれど、これは僕をいじめるのでなく、可愛がってくれているってわかってきて段々リラックス出来るようになった。 何よりもありがたかったのは、ご飯が毎日2回ちゃんと貰えること。 山にいたときは母親が大きな獲物をくわえてきて、そのときはお腹一杯食べられたけれど、小さなもぐらが一匹だけだったり、そういうときは兄弟で取り合ったりして、母親に叱られた。でも獲物があればよい方で、なにもないときもあって、そのときはすいたお腹を抱えて眠るしかなかった。毎日ちゃんとご飯が食べられるのは本当に嬉しかった。

正昭さんは僕を毎朝散歩に連れていってくれた。それは大抵は山の散歩道で僕が捕まる前によく遊んでいたところなので、なつかしかったし、安心して散歩を楽しめた。

母親に会えないかと期待したけどそれは叶わなかった。

あるいは母親はどこかに隠れて僕を見ていたかもしれない。 時々は家が沢山並んだ里の方を散歩することもあった。山の中で育った僕には里の様子はすべてが珍しかった。いろいろな家々、乗り物、田んぼや畑、神社、お寺など。でもよく飼われている犬に吠えられた。それから猫にもよく出会って、こちらはなんとも思っていないのに、牙を剥き出したりする。 僕はそれまでこんなに沢山の犬や猫が人間に飼われていることを知らなかった。

僕が見てきた動物達はみんな人間が野性動物と呼んでいる人間に飼われていない自然界の動物で、それが、普通の動物の姿と思っていたので人間に飼われている犬や猫には正直驚いた。

輝代さんは長倉家を訪れる人に「この犬は野良犬だったのよ」とよく言っていたけれど僕にはその意味がわからなかった。思い返すと、僕が輝代さんに捕まえられる時も「この犬、野良犬ね」とか言っていた。

僕が人間でなく犬であることくらいはわかるけれども、野良犬というのは一体どういう犬なんだろうな?と思っていた。 この事が正昭さんと里の方を散歩して、人間に飼われている沢山の犬達を見ているうちにその意味がわかってきた。つまり、人間にとっては人間に飼われている犬が普通の犬で、飼われていない犬は野良犬ということだったのだとわかってきた。

そんなこんなで長倉家での生活は僕にとって、そう悪いものではない、というより、山での野良犬生活を思い起こすと、天国と言ってもよいくらい。


でも僕は僕の中からときおり呼び掛けがあるのを感じていたのです。

「ここは本来お前の居続けるところではない。お前の故郷はあの山の中だ。あの山の中でお前は自由に遊んでいたではないか。お前の母親は勇敢に狩りをしていたではないか。お前もそのように生きてこそ本来のお前だ。山の生活は確かに厳しい。人間に飼われていれば、食うには事欠かない、しかし鎖に繋がれ、自由を奪われている。情けないと思わないのか、さあ山へ帰ろう」

という呼び掛けが、繰り返し、繰り返し、聞こえてくる。

そこで僕は反論する。 「僕はここが気に入ってる。みんな優しいし。この間、正昭さんと里の方を散歩していたら原瀬さんに引き取られた兄弟分も元気で幸せそうだった。僕も幸せだ、と思ってる」 また声がする。

「彼は彼、お前はお前だ。本来のお前が何を求めているか、深く思え」

確かに考えてみると、ここにいてどうもしっくり来ない感じがある。 ひとつはどうも本当には人間にはなついていない。長倉家以外の人間には今でも警戒心が起こって、逃げたくなる。野良犬だった僕は最初から人間に飼われている犬とどこか違うのかもしれない、など思った。

どうしても一度は山に帰ってみよう、と思っていたところで、僕を繋いでいる鎖を繋いでいるところが緩んでいることに気が付いた。そこで引っ張って見ると簡単に外れた。

僕は鎖を引きずったまま一目散に駆け出して山を目指した。久々に味あう自由は格別で、山の中を思う存分探索した。そしてまだ一度も行ったことのない官の倉山の頂上に向かった。

官の倉山は頂上へ至る道の頂上付近の傾斜が急で、登る人が掴まるための鎖を設けてある鎖場と呼ばれる場所があり、僕はそこを登り始めた。犬なので鎖を使う訳には行かない。 鎖場の脇の小松の多数繁った場所をは~は~息をはきながらのぼっていたが、急に身体が前に進めなくなった。なんと僕についている鎖が、小松の枝に絡まってしまったのだ。もがけば、もがくほど鎖は余計に絡まる。とうとう身動きが取れなくなってしまった。


僕はやむなく、大きな泣き声を出し始めた。

ここからは後で正昭さんから聞いた話です。

正昭さんはグレハムがいなくなったので心配していたら、山の上の方から悲しげな犬の泣き声がする。その声は延々と続いてやもうとしない。

正昭さんはこれはグレハムにちがいない、と思い、泣き声を頼りに声の主を辿って行くと鎖場まできた。 ところが声の近くまで来ると、泣き声が止んでしまう。

探し回ってようやく僕を見つけた、ということである。 僕の方としては、正昭さんが来たのが判ったので喜んだ、そして声を出そうとしたけれど声がでない、声を出そうとすると、母親の険しい顔が出てきて、声を出すのを止めてしまう。

声を出そうと何回もトライしたけれど、そのたびに母親の険しい顔が出てきて止めてしまう。 正昭さんが僕を見つけてくれた時はほっとした。


それからまた平穏な日が過ぎていった。僕はもう鎖が緩んでいても山の方に逃げて行こうとはしなくなった。 そして正昭さんは散歩に行くときに時々は僕を鎖から離してくれるようになった。そのときは僕は正昭さんから離れて山の中を自由に駆け巡り、それからまた正昭さんのところに戻って、それを繰り返しながら散歩した。僕にとってこの散歩の時間がとても楽しい時間になってきた。


ある夏の日だった。 日曜日といって正昭さんが会社に行かない日だった。こういう日は特別に長い時間の散歩が待っていて僕はそれがとても楽しみだった。 といっても朝早くはその日が日曜日なのか、普通の日かはわからない。でも、正昭さんが早くから僕を散歩に連れ出さない。子供達は学校に行かない、というと間違いなく日曜日だ。

その夏の日もそのような朝だったので僕はウキウキした気分になって散歩を心待にしていた。ところが正昭さんがなかなか起きてこない。僕は待ち遠しくてイライラしてきた。でも日が高くなってからようやく正昭さんが起きてきた。


ーーーーー筆者「グレハム、君の話の途中で口をはさんで悪いけれど、その日の前の日に私は地元での飲み会が遅くまであって朝寝坊をしていたんだ。」

グレハム「そうだったのですね。そう言えばその前の夜は遅くに、帰ってきて酔っぱらっていたようでした。」

筆者「ゴメンね、グレハム」

グレハム「もういいんです、そんなこと。それよりこれから又、僕のおもいでばなしを続けるんで、しっかり記録してくださいね。」 ーーーーーーーーーーーー


正昭さんはいつもの散歩のように僕を繋いだ鎖の端をもって僕を散歩に連れ出してくれました。 山への散歩コースはその日によって少しずつ違うが、主に山回りと川回りがある。 長倉家は官の倉山の麓でそれも少し山を登ったところにある。それで、散歩の時に山を登る方向に向かえば、すぐに山の中に入って行く。これが山回り。 逆に山を下る方向に向かうのが川回りで、このルートについては少し説明する。 長倉家から山道を下っていくと畑や田んぼの中を通って山に向かうなだらかな道に出る。その道の両脇には民家が何軒か点々と並んでいる。 その道に並んで飯田川と呼ばれる小川が流れている。夏の夜にはその川沿いにホタルが飛び交う。 その川と道の間に野菜畑があり、田んぼがあり、すももの園もある。道を山の方に向かっていくと、川と道の幅は段々狭まり、やがて道のすぐ脇を川が流れているという具合になる。それでこちらのコースを川回りと呼んでいた。

その日の日の散歩は川回りだった。

川回りは僕の好きなコースだ。いつもなら、弾んだ気持ちで山に向かう道を歩いていく。飯田川が終った辺りから急な山道になるけれど、そこをしばらく登ると、正昭さんが鎖から僕を放ってくれる。それがわかっているので、鎖に繋がれながらでも、ワクワクする気持ちで飯田川に沿った道を歩いて行ける。

でもこの日はそういう気分にはなれない。とにかくとても暑くてやりきれない。犬にとって夏の散歩は早朝の涼しい時に限る。犬は人間のように発汗機能を持っていないので、炎天下はものすごくこたえる。出発したときは、それほどでもなかったのは、歩いているうちに太陽はどんどん高く上がり、日差しはどんどん強く、気温はどんどん高くなる。

僕は途中からもう歩きたくなくなった。 これももとはと言えば、正昭さんが遅く起きたせいで、正昭さんが恨めしく思えた。

正昭さんはそのような僕の気持ちを知りもせず、歩みののろくなった僕を引きずるようにひっぱていく。

いつもは僕が正昭さんを引っ張って行くように歩くのだけど、この日は逆に僕が引っ張られていく方であった。

それでも、飯田川が道のすぐ左側を流れているところまで来ると、道の右側は山で、左側の川の向こう岸は背の高い杉の林で、日射しが遮られ、少し涼しくなった。

僕は気を取り直して、すたすたと正昭さんの前の方を歩き始めた。 この道は車が一台なら通れる広さでなだらかに砂防ダムまで続いている。 川は途中から道の下に潜り、左側を流れるように流れが変わる。砂防ダムの手前の左側に細い山道がある。これは官の倉山の頂上までつづく道で、僕たちはそこを登っていく。しばらく進むと道は急な坂道になり、山の神様と言って小さな石のほこらが祀ってあるところにくる。 ここで道は二つに分かれて、右の道は官の倉山の頂上へ向かっている。左の道を辿ると小川町の隣の東秩父村に着くと言うことだが、僕が野良犬だった時もそっちには行っていないし、正昭さんにも連れていってもらっていない。 いつもはこの山の神様辺りに来ると、正昭さんは僕を鎖から離してくれる。そして僕は正昭さんの周りを行ったり来たりして駆け回りながら官の倉山の頂上の方に登っていく。

この日も正昭さんは僕を鎖から離してくれた。

ところが、僕はというと、何ともときた道を一目散にかけ降りて行ったのだ。 なぜだ、と思うでしょうが、僕には僕の理由があった。急な坂を登って来て喉がカラカラに渇いていた。 人間にはわかってもらえないかも知れないけれど毛皮を被っている僕たちは汗をかけないので、口から舌を出してはあはあいいながら、舌から唾液を蒸発させて、舌を冷やし、舌の中を巡る血液を冷やして、身体全体を冷やす。だから喉がカラカラになると言うことは、舌を冷やす唾液もなくなってくるということで、命に関わることなんだ。

さらに言わせてもらうと、僕たちの祖先は狼であってそもそも夜行性。夏の昼間なんかは木陰で寝そべっているのが自然の姿なんだ。

とにかくそのときの緊急課題は一刻も早く、喉の渇きをいやすこと。 僕は、少し下ったところに小さな泉があるのを知っていた。その泉は小さくて草におおわれているけれど、水が絶えない。この泉は野良犬の頃に母親に教えてもらっていた。 僕が一目散に向かったのはその小さな泉だった。案の定、その泉は残っていて僕を迎えてくれた。

「久しぶりだね」と言ってくれた。

僕は夢中で水を飲んだ。その水は僕の身体中に沁みわたり、僕を癒してくれた。 遠くから正昭さんの声が聞こえてきた。「グレハム~、グレハム~」

ところがもうひとつの声が聞こえてきた。「グレハム、お前の本来の居場所は何処なのか、よく考えてごらん。日に2回のエサをもらうために鎖に繋がれ、自由を失っている。それは、もうお止め。山の中を疾風のように駆け巡り、狩りをしたい時は狩りをし、水を飲みたいときは水を飲み、眠りたいときには眠る、これがお前の本来あるべき姿でないのかな。」

それは、僕のご先祖の狼の声のようにも思えた。 それから母親の声も聞こえるようだった。 「坊や、帰っておいで、お母さんのところに」 僕は身震いをした。僕の中にある野生が騒ぎだしていた。 「グレハム~グレハム~」 正昭さんの声がもう近くで聞こえてきた。でも僕は哭かなかった、動きもしなかった。仔犬の時に人間が近づいた時に見せたあの母親の険しい顔が浮かんできた。

僕は自分が元の野良犬に戻っていくのを感じていた。 同時に長倉家に飼われていた自分も思い出していた。でもその思い出も過去の夢のように色褪せて消えていった。

正昭さんの声は段々遠のいていった。


ーーーーーーーーーーーーー 筆者「グレハム、私もあのときは本当に往生した。いくら呼んでも君は帰ってこない。もしかしたら家に帰っているかも知れないって帰って見たけれど、家にもいなかった。それからまた山に戻って探したけれどそれでも見つからない。

私は次の週には子供もつれて君がはぐれた辺りを探したけれど、やはり見つからなかった。 本当に残念だったけれど、君を探し出すことはあきらめた。 それでも、いつか帰ってくるかも知れないという期待はあった。 でも君はとうとう帰って来なかったね~ ところで、この記録の今のところただひとりの読者の由貴子さんという人が君が熱中症で死んでしまったのではないかって、心配しているよ。」 グレハム「そうですか。由貴子さんという人も僕の話を聞いてくれているんですね。それは嬉しいです。 由貴子さん、僕は死にはしませんでしたよ。では話を続けます。」 ーーーーーーーーーーーーーー


僕は泉の水をたくさん飲むと、そのほとりに横たわっていました。とても疲れていて動くことは出来なかったのです。 ここは周りには鬱蒼とした樹が生い茂り、深緑の夏の葉が、真夏の太陽の激しい陽射しを遮ってくれています。葉の向こうには青い青い空があって、真っ白い雲が流れていきます。時折涼しい風も吹いて僕の身体を撫でて通りすぎていきます。 僕は段々気持ちよくなり、そして眠くなって来ました。 とても遠いところで正昭さんの声が僕を呼んでいるようでした。

でもそれも微かになって、僕の夢の中に消えていきました。 僕は深い深い眠りの中に落ちていったのです。

どのくらい眠っていたのか、わかりません。目をさましたら薄紫の空があって、そのまま横になっていたら、段々明るくなって、鳥達のさえずりも聞こえてきます。

朝です。 僕はすっかり元気を取り戻していました。 僕は由貴子さんの言うように熱中症だったのかも知れません。 でも、この泉の水と木陰、そして僕の横たわっているこの大地が僕を癒してくれたのです。

空は明るくなり、灰色だった木々達の葉が、緑色を取り戻していきます。 山が目を醒ましているのです。 僕は起き上がり、大きな伸びをします。 鳥達のさえずりも段々声高になり、蝉も鳴き出します。 僕の中の野生が甦って来ています。 この泉も周りの草達、木々達が虫達が「お帰りなさい」と僕を迎えてくれています。

僕は泉の水を飲むとみんなに挨拶をしながら山中を駆け巡ります。 リスさん、ウサギさん、イノシシさん、アライグマさん、ハクビシンさん、熊さん、鹿さんにも。 僕は山にいたときにはまだ仔犬で、この動物達を噛みついたりはしないし、多分からいかったので、みんなに可愛がってもらっていた。

僕が長倉家に連れていかれてからはもう一年以上がたっていました。だからもう僕は仔犬ではありません。 だから、ウサギさんやアライグマさんは僕を見ると、逃げ出そうとしました。だけど僕がしっぽを振って笑うと(人間にはわからないかも知れないけれど、犬だって笑うんです) 僕をしげしげ見て、仔犬だった頃の僕を思い出して笑い返してくれます。そして「帰ってきたのね~」って言ってくれます。

あっ、動物は言葉なんか話せないのに変だ、と思いますか? これは間違いです。 野性動物は心と心で話が出来るんです。野性動物の心は全部繋がっています。動物どうしだけではない、草や木とも繋がっているんです。この山とも、大地とも繋がっています。

人間も遠い昔はそうだったと思います。人間が文明を作って、自分たち人間は特別な存在だと思うようになってから、心が離れてしまったのです。いや、本当は離れていません。しっかりと繋がっています。ただ、それを忘れてしまっているだけです。

実は僕も長倉家に飼われている間にすべてが繋がっているというその感覚を忘れてしまっていました。 僕があの泉の水を飲んで、深く、深く眠ってしまっている間にこの感覚が甦って来たのです。 僕が長倉家にいた頃、長倉家にようやく馴染んできた頃になって、「山に帰りなさい」という不思議な呼び声がしたのは、「みんな繋がっていて、その中で僕たちの魂は自由に遊べる、その事を思い出しなさい」ということだったと思う。

僕はお腹が減ってきたけれど、狩りはしなかった。長倉家に飼われている間に狩りをする力はなくなっていた。いや、狩りをしようと思えば、その力を取り戻せたと思う。

でももう狩りはしたくなかった。こうして山に戻ってきた僕を、みんな暖かく迎えてくれた。その動物達を追っかけ回して食べたりはもう絶対にしたくなかった。

動物達と追いかけごっこはしたけれどそれは遊びのひとつだった。夏の間は主に山芋を食べた。これはイノシンさんが掘って食べているのを見て真似をしたのだけど、食べてみると本当に美味しかった。 柔らかい草も少しは食べた。これはお腹には良い。 モグラさん達はしばらく僕を怖がっていたけれど、僕が何も悪さをしないので僕になついてきた。 秋になるとに山葡萄や、木苺や、落ちている熟し柿も食べた。

僕は野良犬の時は母親が狩りでとってきた獣の肉ばかり食べていた。長倉家に飼われるようになってかた、ご飯も果物もイモ類も食べた。

だから、山に生えている果物や山芋などを食べることができた。

秋も深まるとクリも落ちてきていたので、好んで食べた。

でも。獣は食べなかった。人間の言葉でいうと、ベジタリアンになっていた。犬のベジタリアンていうのは珍しいかな。


それでも僕は幸福だった。山に抱かれ、山の命たちと心が通っていたから。 母親のことも思い出して、いつか母親に会えるかもしれないと思ったけれどそれはかなわなかった。

でも、僕にはまぶたの母がいた。静かな茂みの中で、鳥たちの声を聴きながら目を閉じてうつらうつらとしていると、母親の声が聞こえた。まぶたの奥に母親の姿も見えた。母親は「坊や、良く帰ってきたね」と笑いかけてくれる。僕はその声を聴きながら眠りに入る。


だから僕は寂しくはなかった。昼間はウサギさん達と追いかけっこをした。僕がウサギさん達を追いかける。ウサギさん達は面白がって逃げる。僕に捕まえられたウサギさんは

僕に捕まえられたウサギさんは何か得意な芸を見せなければならない。ウサギさんの芸は小高い木を飛び越えたり、急な崖を駆け上ったり、他のウサギのしぐさを真似したり、歌を歌ったりで面白かった。


僕がウサギさんに追っかけられる役の時もある。僕はウサギさん達より足は速いけれど、ウサギさんたちは大勢で僕を取り囲んで、その輪を縮めてくる。その輪をすり抜けて逃げれれば、僕の勝ち、誰かにタッチされたら僕の負け。うまくすり抜けられる時もあるけど、たいていは誰かにタッチされてしまう。そうすると、僕はタッチされたウサギのお馬になって森を一回りすることになっていた。

イノシシさんとも遊んだ。山芋堀り競争だ。お互いにどの山芋を掘るかを決める。そして先に掘りあげた方が勝ち。後になった方は掘り残した分を掘りあげて、勝った方に上げなければならない。これは実益も兼ねていたので結構夢中になった。

楽しかった。 このゲームにはそのうち、ウサギさん達も加わった。ウサギさん達は穴堀が得意だけど、小さいので3匹が一組というルールをもうけた。最初はイノシシさんか僕が一番だったけれど、ウサギさんは段々うまくなって、いつもウサギさんチームが勝つようになった。それでウサギさんは2匹が1チームになってバランスが取れた。


かくれんぼもしたよ。この遊びは長倉家の子供達がよくやっていたのでそれの真似をしてみた。 はじめはウサギさん達とやってみた。僕たちが面白そうにかくれんぼをしていると、それを見ていたリスさん達が仲間にいれてくれっていったのでいれてあげた。そのうち、メジロさんやカラスさんなど鳥さん達も一緒になって、モグラさんも加わった。イノシシさんの子供達、ほら、あのウリボウと言われる子達も加わったよ。

それぞれ隠れかたも独特で面白かった!

僕はこうして、あどびかたを動物達に教え、一緒に遊んで、自分も楽しかったけれど、みんなも楽しかったと思うよ。

特に動物の子供達は僕を慕ってくれていたよ。こうして、僕はその夏から秋にかけて山の暮らしを楽しんでいました。 やがて寒い冬がやって来ました。


僕は毛皮を着ているので寒さには強い。

でも食べ物が段々乏しくなって、お腹が減りました。 山の動物達は自分たちの巣に引きこもり、あまり遊ばなくなりました。 僕は長倉家のことを思い出していました。長倉家に戻ればご飯をもらえるかも知れない、という思いがわいてきます。この道をかけ降りて行けば長倉家がある、正昭さんや輝代さんや子供達がいる。駆け降りようとする衝動が走ります。

でも、途端に母親の険しい顔が現れます。僕を噛もうとします。 そうです。僕が母親と住んでいた時に人間が近づいた時に見せたあの母親の険しい顔で、僕を噛もうとするのです。僕にはこの僕の目の前に現れてくる母が現実の母ではないことはわかっていました。 でも、でもどうしても逆らえないのです。

何回も長倉家に向かって駆け降りようとする衝動にかられて、そのたびに母親の険しい顔に足がすくんで、それから長倉家に戻るのはあきらめました。いやあきらめた、というより長倉家のことを忘れていきました。思い出すことが苦しく、怖いので、思い出さないようにしていたのかも知れません。 そうそう、この事については話すのを忘れていました。 それは、この山に散歩にくる人たちのことです。正昭さんは僕がいなくなったせいでしょうか。山に入ってくるのを見かけませんでしたが、散歩にくる人たちは時々はいました。 散歩にくる人たちの数というと、僕が母親と住んでいた時ほど、頻繁ではなかったです。 というのも、母親と住んでいた頃はゴルフ場の建設工事が中断してそれほど日数(ひかず)がたっていなくって、山を巡る道がしっかりと残っていて歩き安かったのが、草木で覆われてきて、歩きにくくなったせいだったと思います。

散歩をする人が全く入らない日が多かったのですが、人が入ってきた時に動物達がとる行動は一緒です。 動物達は遠くの方からでも人が入ってきたことに気がついて、人から見えない場所に隠れて息を潜めます。 僕も動物達と一緒にそうします。 僕たちが鬼ごっこやかくれんぼをしていても同じです。遊びをピタッとやめて、隠れるのです。


冬にさしかかり、寒さも増してきた頃のことです。僕は日だまりで日向ぼっこをしていました。 すると、何と遠くの方から正昭さんの声がするのです。懐かしいあの声です。 誰かと楽しそうに話をしています。 僕はその頃、長倉家のことも正昭さんのことも思い出さなくなっていました。 でもその声を聞くとありありと記憶が甦って来たのです。 僕は正昭さんに向かって駆け出そうとしました。 ところが僕の意志とは反対に僕の身体は後ずさりを始めたのです。日だまりから退いて、林の中へ、そして下草の陰に身を潜めたのです。

僕は下草の陰に身を潜めたまま、金縛りにかかったように、身体を凍らせて、正昭さん達が近づいて来るのを、待っていました。

正昭さんは二人の若い男の人と一緒でした。僕の聞いたことのない言葉を話していました。 でもグレハムって言葉だけは聞こえて、気になった。


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筆者「グレハム、あのときはね、ニコルとアドレイという二人のフランス人に山を案内していたんだ。 私は『前にこの辺りで野良犬を捕まえて、グレハムという名前をつけて飼っていたことがあるという話をしていたように思う。」

「ニコルとアドレイというのはWwooferといって、有機農業の手伝いということで滞在してくれる人たちで、その頃しばらく我が家に宿泊しながら、輝代さんの農作業を手伝ってくれていた。その二人のフランス人の中のニコルというのは父親がアルプスのガイドをしていて、幼い時から父親と山にいっていたので山の事をよく知っていた。 ニコルとアドレイを連れて小川町町民の森という、小川町の中ではこの官の倉山とは反対の方角にある小高い山に行ったが、何と、案内をしていた私が道に迷ってしまった。私はとにかく低い方向に向かえば、降りれる、と思ってそうしたのだけれど、ブッシュ(地元ではシノと呼んでいる細い竹が主の茂み)に阻まれて身動きがとれなくなった。その時にニコルは、ちょっと待って、と少し上の方に登って、抜け道を見つけてくれた。 グレハムが私とニコルとアドレイに出会ったその日は彼らに官の倉山を案内していた。

ニコルはその前の日に官の倉山の麓から少し登ったところに山の木の枝と葉っぱで小屋を作ってその中で夜を過ごした。私とアドレイはその小屋を見て、その後、官の倉山を案内しながら散歩していたんだよ。

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グレハム「思い出しました。 イノシシさんが僕に教えてくれました。「人間があっちの方で巣を作っているよ」って。 僕はそれを聞いて、そちらの方には近づかないようにしました」

筆者「そうか、そういえばニコルがいっていたよ。木の枝と葉っぱで作った家の中で寝ているときにイノシシが3回も来たって」

グレハム「そういうことだったんですね! では僕の話を続けます。」

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僕は林の中、下草の陰に身を潜めて、正昭さん達が近づくのをじっと待っていました。 やがて僕の目の前に正昭さん達が姿を現しました。僕の聞いたことのない言葉で楽しそうに何かを話しています。意味はわからなくても懐かしい正昭さんのあの声です。僕の中に駆け出したい衝動が走ります。

正昭さんの胸に向かってまっしぐらに飛び込んで行く、そうしたら、正昭さんは驚き、「何!、グレハム~、生きていたの~!」と僕を抱きしめてくれるに違いないのです。僕にはそれがわかっていました。 でも、でもです。僕の身体が動かないのです。それは氷のように固まっていくのです。

正昭さん達の声が遠退いていきました。僕の身体も氷が溶けるように動けるようになってきました。 夢の中で金縛りにあったことはないですか、動きたいのにどうしても動けない、そしてめが覚めたら、ああ、動けるじゃん、良かった、といったあの感じです。


その日以来、また正昭さんのこと、長倉家のことは忘れました。 冬が深まり、食べ物はますます乏しくなっていきました。山の動物達はそれぞれに冬を乗り越えるための準備をし、工夫をしています。 リスさん、ウサギさんは木の実なんかの食べ物を蓄えています。 熊さんはうつらうつらとエネルギーを消耗しないように穴蔵で眠ります。イノシシさんは眠っているミミズを掘り出して食べたり、人里に出て、畑に残っている芋など掘り出して食べています。

鹿さんは木の皮なんかも食べます。 でも僕はそういうものはたべられません。 残っている山芋や、動物達が取り残した栗の実なんかを食べて飢えをしのいでいました。

雪が降り始めました。僕が食べれるものはもう何もありません。リスさんが栗を持ってきてくれました。でもリスさんに返しました。僕はそれがリスさんにとってとても大事なものだってわかっていました。 そして僕は自分がこの世を去っていく時がきたことを覚りました。

僕は慣れ親しんだ林の中の柏ノ木とヤツデの葉陰に身を横たえました。 重なった落ち葉の敷物が僕を暖めて繰れています!その落ち葉の下には大地があって、僕をしっかりと支えてくれています。

雪はしんしんと降り積もっているようです。 僕はたった一人でこの世を去っていくのです。この白い白い、冷たい冷たい雪に包まれて。

でも淋しくはありません。このヤツデの葉が僕を雪を遮ってくれていて、落ち葉が僕を暖めてくれていて、この山が、大地が僕を支えてくれている、それだけでいい。


それから山の仲間達の声が聞こえてきます。これはテレパシーです。スマホよりずっと早く、即座に聞こえてくるのです。

みんな、僕がこの世を去ろうとしていることがわかって、僕に別れを告げてくれます。 鳥達は僕が横たわっているところの木の枝に止まって歌を歌ってくれます。

決して悲しい歌ではありません。僕をあの世へと静かに誘ってくれる優しい歌です。 でもそのうち、ウサギさんの子達が泣き出しました。「もう、遊んでもらえないの~」って泣いているんです。それにつられてイノシシさんの子供のウリボウ達も泣き出しました。そして、子ウサギ達も、ウリボウ達も親達が止めるのも聞かずに、巣から這い出して僕のところに集まってきました。親ウサギや親猪も子供達を心配してついて来ました。


木の枝では鳥達が優しい歌を歌ってくれています。そして僕を囲んでウリボウ達や子ウサギ達がワアワア泣いているのです。子ウサギ達とウリボウ達の親達は心配げに見守っています。 このいかにもアンバランスな状況の中で僕は妙な幸福感に包まれていました。

それから他の動物達も鳥達の歌と子ウサギやウリボウの泣き声に引かれて集まってきたようでした。 熊さんが冬眠している穴蔵から起きてきたのは大地を伝わってくるその足音からわかりました。


雪は一層降り積もってきて、僕を雪から覆っていたヤツデの葉もその葉に積もる雪を支えきれずに僕の身体も雪にうずもれていきます。 山の動物達が次々と集まって来て、僕に別れを告げてくれます。 「グレハム、遊んでくれてありがとう。人間の世界のこともいろいろ教えてくれてありがとう。」 僕は答えます。 「人間の世界から戻ってきた僕を暖かく迎えてくれてありがとう。短い間だったけれど、本当に楽しかったよ」って。

それでも僕の感覚は段々と失われて来ました。 僕を囲んで泣いていた子ウサギ達やウリボウ達の泣き声も遠退いていきます。 そして母親が目の前に浮かんできました。もう険しい顔ではなくって、優しかったあの顔です。

僕は仔犬の頃の僕に帰っていました。穴蔵の中で母親の乳房に吸い付いていた仔犬の頃です。暖かい乳房と甘い香りいっぱいのおっぱい。優しい母親の眼差し。

人間の足音、怯える母親の目、こわばった身体、泣いてすりよる自分、険しい母親の目。 「お母さん、犬がいるよ」と人間の子供の声。「野良犬ね、連れていこうか」という輝代さんの声。 長倉家に飼われていた日々。 官の倉山の頂上付近で小松に鎖を絡まれて、泣いていたこと、 暑かった夏の日に山の神様のところで正昭さんから逃げ出したあの日のこと。 走馬灯のように過去のことが現れては、消えていきます。


このような過去の思い出はほとんど忘れていたことです。 僕の記憶には、この山に戻って山の動物達と遊んだ楽しい思い出ばかりでした。でも何か失った過去があって、それが時たま、僕を寂しくさせることには気がついていました。 その失った過去がありありと甦って来ていました。


走馬灯のように移っていく僕の記憶は正昭さんが二人の若者と山に入ってきた時に至りました。 キュンと胸が痛みました。 あのときに正昭さんの胸に飛び込んでいたら、そこに新しい生活が待っていたかもしれない、という思いが沸き上がりました。 その思いも消えていきました。 動物達が別れの歌を歌ってくれています。子ウサギ達やウリボウ達の泣き声も止んで、小さな声でその歌にあわせています。木々達もその歌にあわせて、歌っています。声にならない声で。山全体が、この大地が歌っているのです。 雪はすでに山の一切を真っ白く覆い尽くしているでしょう。 僕は静かに地上での命を終えて天に上りました。

僕の話はこれでおしまいです。

ーーーーーーーーーーーーーー

筆者「グレハム、話してくれてありがとう。これで君が帰って来なかった理由はわかったような気がする」

グレハム「わかってくれてありがとうございます。でも僕は本当は正昭さんのところに帰りたかったんだ、と思います。」

筆者「私も君には帰ってもらいたかった。 君は野良犬だったから、野生動物のことをよく知っているし、君にはこの村の野生動物の住み場所との境界を守るパトロールになってほしかったしね。」

グレハム「パトロールですか~、それなら僕にもできたかも知れないです。動物達の気持ちはわかっていたし。」

筆者「そうか、惜しいことをしたね」

グレハム「僕も残念です。今度犬に生まれたら、僕はパトロール犬になりますよ」

筆者「それはありがたい心がけだ。ところでそんな気丈な心がけがあるなら、何で私がニコル達と山に入っていったときに、私に着いて来ようとしなかったのだ。」

グレハム「着いていきたいと、と思ったのに身体が動かなかったんです、本当に。」

筆者「どうして、そうなっちゃったんだろうね?」

グレハム「天国に来てから、これは母親から与えられたトラウマだ、ということがわかりました。仔犬の頃に人間は怖い、という感覚を母親から植え付けられて、そこから逃れられなかったんです。」

筆者「今はどうなんだい? やっぱり人間が怖い?」

グレハム「いいえ、もう怖くないです。だからこうして正昭さんとも普通に話していれるんです。正昭さんだけじゃない、誰とも話せます」

筆者「どうして怖くなくなったの?」

グレハム「天国に来てからも最初は人間が怖かったです。人間の魂は避けて、野生動物とばかり、話したり、遊んだりしていました。 でもある時お母さんの魂と出会いました。懐かしかったです。お母さんは生きていた時のように僕をなめてくれました。でも泣いているのです。こんなお母さんは見たことがないです。どうしたの、お母さん、と言うとお母さんは泣きながら言うのです。

『ゴメンね、坊や。あなたをこんなに早く死なせて、しまった。みんなお母さんのせいなんだから』と一層大声をあげて泣くのです。

『何で、そんなに泣くの? 話してよ』と僕。

『あなたは正昭さんが、山に入ってきた時に正昭さんのところに戻れば良かったの、でも私の心があなたを動かなくしていたのよ、私はあなた達に人間は誰もが恐ろしい存在で、絶対に近づかないように教えていた。でもこれには理由があるの。この話しは、あなた達にしたことはない。あなた達が生まれる前の話よ。あなた達のお父さんが野犬狩りというのにあって、捕まってしまったの。それ以来私はあなた達を必死で育ててきたわ。その時の私には人間は怖いものでしか、なかった。でもこうして天国に来てから人間の魂にも出会えて、大勢の優しい人たちがいることもわかったの。正昭さんも、その家族もとても優しい人たち、だからあのときに正昭さんに着いていけば良かったのよ』と、またさめざめと泣いています。

僕はその話を聞いているうちに僕が人間を怖れるというトラウマが解けてきました。

『お母さん、話してくれてありがとう、もういいんですよ』と僕は言いました。それ以来、僕は野生の動物達の魂だけで人間の魂とも、それから人間に飼われていた動物達の魂とも、親しく交わっていますよ。」

筆者「グレハム、私も君に謝らなければならない。 あの暑い夏の日に君を散歩に引っ張り出さなければ君は私から逃げていくこともなかった。君の身体のことにもっと気を使っていたらあんなことはしなかった。 それに私が 君のことを普段からもっと愛していたら、君をトラウマの呪縛から解き放たれたかも知れなかった」

グレハム「いいんですよ。あれはいわゆる宿命だったと思います。あのあと僕は山の仲間達に迎えられて楽しい時を過ごしたし。確かに半年くらいの間でしたけれどとてもいろいろな愉快な経験もできて、とても長く思えましたよ。」

筆者「ありがとう。それを聞くと私は救われた気持ちだ。」

筆者「ところで君の話の中で人間が忘れてしまっている、という野生の世界のことがあった。このことについてもっと話してくれないかな」

グレハム「わかりました。でもこのことは本当に伝えにくいです。 そのうちにまたお話しします。」

筆者「わかった、では天国で楽しく暮らしてね。」

グレハム「正昭さんも楽しく暮らしてください、さようなら。」


筆者「さようなら」

The end.





by masaaki.nagakura | 2018-09-18 12:55 | まさあきさんのおはなし
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