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私の旅14 蟹江中学校同窓会
 私は横浜の生麦で生まれたのですが、父が仕事を変えるのに伴って引っ越しを繰り返し、学校も数回転校しています。小学校は横浜市鶴見の東台小学校に入学し、1年生の2学期に東京都板橋の志村第2小学校へ転校し、小学校5年生の2学期に静岡県沼津市の第4小学校に転校しています。中学は沼津市の香貫にある 沼津第2中学校に入学、三年の2学期に愛知県の蟹江町の蟹江中学校に転校しました。
 小中学校を東京の板橋、静岡県の沼津、愛知県の蟹江と渡り歩いたわけですがそれぞれに気象が異なり、転校するたびにカルチャーショックのようなものがありました。
 沼津は東京に比して気象が荒い印象でしたが、蟹江は更に荒く、それに比すと沼津はまだマイルドです。
 一方情の深さ、素朴さあるいは野性味という点では蟹江が一番という心象です。
 蟹江中学校は昭和34年(1959年)に卒業したのですが、その時の3年D組みの同窓会が20年ほど前に始まり、数年に1回程度ですがずっと続いています。
 私が蟹江中学校に通ったのはたったの半年程度ですが、その時の同窓生が懐かしく、同窓会には毎回出席しています。
 今年の同窓会は西光寺という寺の隣の料亭でした。
 今回も懐かしい面々との出会いが元気を与えてくれました。
 以下はその時の写真です。 担任だった加藤先生もお元気で参加していただきました。
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この人は加藤先生ではなくて、笑い顔があまりに良かったので撮っただけの話です。次の写真の中央の紫の衣装の人が加藤先生。
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この人の笑顔も素敵です。
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笑顔はみんな素敵。
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最も暴れん坊(私観)だった彼の笑顔(下の右)がまたいい。
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別に口説いているわけではない。懐かしくて話しているだけ?
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この下の左は蟹江中学で模型飛行機に燃えた、そして今も燃えている人。右は吹奏楽に燃えた、そして今はカラオケに燃えている人(今回の幹事です)。何が共通の話か、想像つかない。
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語らいの一時。

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加藤先生を囲んで。卒業したのが1959年ですから、55年の時が流れての今日です。

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この最後の写真の一番左、間の抜けた表情でつっ立っているのが私です。


by masaaki.nagakura | 2014-10-28 13:01 | 私の旅
私の旅13  名古屋大学ホームカミング
2014年10月19日に私の卒業した愛知県蟹江町の蟹江中学の同窓会があり、帰郷したのですがその前日の18日が名古屋大学のホームカミングデイでしたのでそれに出向きました。
催しがたくさんでほんの一部しか回れなかったのですが、非日常の講演や、見ものに出会えました。
これは素粒子のヒッグス粒子発見の話。ヒッグス粒子は素粒子に質量を与える粒子ということ。その発見のためにジュネーブの巨大な加速器で途方もない規模での実験が進められている。ヒッグス粒子らしいものが見えてきているという話。物理学を学んだ私でもチンプンカンプン、ただ宇宙の深淵の前に立ちすくむ思いでした。
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次はオーロラの話。太陽の活動とオーロラの密接な関係についての説明がありました。
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オーロラは太陽風と地球磁場からできたプラズマシートに蓄えられた電子が南極と北極の両側に流れ込んで、大気を光らせているという事。プラズマシートとはネットの画像からですが、次のようなもの。
宇宙の繰り広げる壮大なドラマです。
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このオーロラの話は名古屋大学太陽地球環境研究所の講演会でした。
この講演会場ではいくつかの実験展示があって、その一つがオゾンに関するものなので関心を持って見学しました。
①三角フラスコに水銀ランプを入れてオゾンを発生させます。
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②ミカンの皮を三角フラスコに入れてふります。
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③すると霧のようなものが三角フラスコ内に立ち込めます。
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この写真ではよく見えませんが、確かに霧か靄のようなものが立ち込めたのです。
ミカンの皮からでるにおい物質がオゾンと反応して出来た化合物が核となって周囲の水蒸気がひきつけられて微粒子になったものだ、いう事で、オゾンを専門にしている私にとってもちょっと不思議な現象です。

つぎに見たのは縄文時代の器。
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それから巨大なアンモナイトの化石です。
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それから樹齢950年のヒノキの年輪です。
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自分の中にある時間と空間の尺度が一挙に拡大した一日でした。
by masaaki.nagakura | 2014-10-23 13:00 | 私の旅
自在心の探求8 学習の落とし穴
人間の他の生命に比類なき学習能力がかえって人間を固定観念に縛り付けて、人間が本来持っているはずの自在心を奪ってしまう事がある、というような話をしました。
そのことについてもう少し詳しく考えてみます。

先ず学習能力というのは何でしょう。
学問的に詮索するととても難しいでしょうが、ここでは
学習能力というのは「経験から学びその学んだ結果を自らの考え方や行動の仕方に反映していく能力」と考えておきます。
この能力は人間だけでなく殆どの動物が持っている能力だと思います。たとえば昆虫などの行動を決めているのは彼らが生まれながらに持つ本能でしょうが、学習能力も持っていて、たとえば蟻や蜂はしっかりと自分の住みかを覚えるし、蝶は蜜の出る花の場所を覚えていて回遊しているようです。鳥や獣となると、その学習能力は相当高度なものになります。それと鳥や獣は自らの体験により学ぶだけではなく、親から子へと学習体験の結果(以下学習結果)を伝える、という能力が加わります。このように世代を越えて学習結果を伝える能力は鳥や獣において明確になりますが、魚や昆虫でもないとも言えなく、特に群れをなし、ある世代と次の世代が一時期を一緒に過ごす動物は全て世代を越えて学習結果を伝えているでしょう。蟻や蜂など、そしてこのブログに紹介した子育てをするクロツノツヤムシなど何らかの形で学習結果を伝えているかも知れません。

人間はこのような世代を越えて学習結果を伝える能力を昆虫、魚、鳥、爬虫類、そして人間以外の哺乳類に比して極めて高度に備えています。
人間はまた個人の学習結果を他の個人へ伝える能力も、抜群に備えています。
このように人間は自己の体験により学習する能力、世代から世代へ学習結果を伝える能力、そして個人の学習結果を他の個人へ伝える能力の三つの能力を他の生命に比類なきほど高度に備え、また発達させてきています。そしてこれらの能力が人間が自らを万物の霊長と誇り得るための必須の要素と、言えるでしょう。
人間はこれらの三つの能力に基づいて文明を発達させて、学問を作ってきました。また特に教育という形で世代から世代への学習結果の伝承を行ってきています。

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ところが、一方においてこれらの三つの能力と、それに基づいて構築してきた文明、学問、教育などが種々の矛盾、葛藤も生み出し、社会的問題や個人的苦悩を惹き起こし、人間が本来持っている自在心を奪っている面があることも事実です。

社会的問題の最たるものは戦争です。戦争は文明の力と力の競争という面があります。また人々を戦争に駆り立てるために教育機関が利用されます。学問が武器を作るために利用され、ときにはその戦争を正当化する理論を作りあげます。

個人的苦悩の最たるものは「理性と感情の解離」ではないか、と私は思っています。
社会が自らの秩序を保持していくために、社会は教育などを通じて個人が理性的行動をとるように導こう、とします。一方人間は本能を備えています。
また、多分人類が古代文明を発達させる以前の100万年を越える原始時代の学習結果の記憶を潜在意識の中に潜ませています。
他方文明とその文明を保持する社会は、一万年程度の間に
作り上げたもので、しかもその間に変動を繰り返してきています。
いわゆる理性的行動というのも、その時代の価値観に基づくもので、それが本能や潜在意識に潜む学習結果が導こうとする方向と矛盾し、それが個人に葛藤を、そしてその葛藤による苦悩を惹き起こしても不思議はありません。

現代の学校教育は多くの場合理性的な判断力を育てることに重点を置き、そのために人類の学習結果とも言うべき学問的知識の伝承を旨としているようです。このような知識はいわゆる顕在意識の世界に記憶されます。一方潜在意識の支配する感情は現代教育の中で、意識的に訓練されることはないようです。


社会の中で人間は概して社会的ルールに従った行動、理性的行動、あるいは合理的行動と言われるような行動を求められます。所で人間に行動への意欲をかきたてているのは潜在意識の支配する感情です。
そのため、社会の求める行動を、自らの感情に逆らってとらなければならない場合も生じます。
あるいは自らの感情に従い、社会が求める行動をとることを拒否する場合も生じます。またそのような拒否が著しくなって引きこもりにつながる場合も出てきます。

いわゆる近代社会は合理性を正義の旗印に掲げる傾向があるようです。つまり何かを行う、あるいは主張するにはそこに何か合理的な理由がなければならない、という考え方がなければならない、という考え方です。
それが時には潜在意識と対立して様々な社会的問題を惹き起こしていく場合があるようです。
たとえばいわゆる精神障害と言われている問題やいじめや引きこもりという問題などです。
こういう問題が論じられる時には往々にして、その責任が個人にあるという話も出てくるようです。そう言ってしまえば、そういう面もあるでしょうが、近代社会の考え方そのものの中にも遠源があると思います。

by masaaki.nagakura | 2014-10-17 11:38 | 自在心の探求
自在心の探求7 執着
人類が社会を形成する過程の中で個人とか所有という概念を作ってきたのであり、またそのことに気付くことで個人とか所有の概念への執着から自由になれる、という話をしました。
ここで執着というのは何のことでしょうか?
また執着から自由になれる、というのはどういう事でしょうか?
私がここでいう執着というのは「固定した概念、観念あるいは思い」です。個人とか所有への執着というのは、個人とか所有を絶対的な存在だ、思い込む心です。
また執着から自由になれる、というのはそのように思い込む心から解放されると言うことです。
そのような意味での執着=固定した思いが、問題なのは何よりもそれが強迫的であって、その思う人の考え方を根底の所で方向付けてしまうからです。
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話はやや横道にそれますが、ユークリッド幾何学というのが古代ギリシャのユークリッドによって基礎が作られて、発展、伝承されてきましたが、それは最近に至るまで絶対的な真理として信じられてきました。数字の場合は公理という前提があって、その公理を根拠として証明を行っていきますが、ユークリッド幾何学ではその公理は自明のもの、即ち疑いをはさむ余地がない真理とされてきたのです。実際、私達の日常の世界ではその公理は正しいと言って差し支えないのですが、宇宙全体に当て嵌めようとすると矛盾が出てきてしまう、ということが分かってきました。つまり絶対的と思われていたものが絶対的ではなかった、ということです。
ニュートンの力学も一時は絶対的な真理と見なされていましたが、アインシュタインの相対性理論により、それが絶対的ではないことが明らかになったのは有名な話です。
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無論数学や物理の世界と人間の心の世界を一緒に論じることは無理があるでしょうが、どちらも「思い込み」によって実際の姿が見えなくなってしまう、という点では共通しています。
人間は他の生命に比して抜群の学習能力を持っているのですが、またその学習によって様々な「思い込み」が生じ、それがまた人間の自在心の働きをさまたげているのもまた事実と思います。

by masaaki.nagakura | 2014-10-15 04:00 | 自在心の探求
自在心の探求 6 所有
怖れが自在心を妨げ、また怖れはわがものとしての執着があることから生じる、という話をしました。
怖れというのは多くの場合「何かを失う怖れ」です。
命を失う、愛を失う、金を失う、地位や名誉を失う、衣食住を失うなどの怖れです。
そして「失う」という事は「持つ」から失うのであって、もとから何も持っていなければ失うものもなく、何かを怖れることもなくなるでしょう。
理屈ではこの通りですが、凡夫はそれが出来ません。
どうしても何かを持ってしまうのです。
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では何で持ってしまうのでしょうか?
人間には自然が(あるいは宇宙が、あるいは神様がと言ってもいいと思いますが)与えてくれた自己防衛本能があるようです。これは人間だけでなくあらゆる生命に備わっている本能で、これがあるからこそ生命は生きていけるのでしょう。
人間が「持ってしまう」ということの深淵にはこの自己防衛本能が潜んでいるようです。
では自己防衛本能があれば「持ってしまう」のでしょうか?
あらゆる生命が自己防衛本能を備えているとすれば、あらゆる生命が「持つ」という感覚、所有の感覚を備えているのでしょうか?
人間以外の生命体になったことがないので明確なことは言えませんが、この所有の感覚は人間に特有ではない、としても人間に特別著しい感覚のようです。
その理由のひとつは他の生命に比類なき高度な社会を形成したことと関係がありそうです。
人間の社会は自らの秩序を生み出すために、古くから所有の概念を作り出したようです。
たとえば「泥棒」という言葉がありますが、これは「所有」の概念がなければ有り得ないのです。
「所有」の概念があって初めて「泥棒」があり、又それを罰する法律も出来、取り締まる警察も必要となります。
歴史をずっとさかのぼっていくと「所有の概念」がそれほど明確ではなかった時代があったでしょう。貨幣もなく、共同で狩をしたり、漁をしたり、果物や木の実を採取し、それを分かち合っていた時代には現在ほど明確な所有の感覚はなかったでしょう。農業が発明され、穀物が蓄えられるようになると、その穀物の管理責任あるいは利用権を持つものという意味での所有者があらわれて、同時に所有という概念が現れてきたでしょう。さらに貨幣が発明されてそれが人間社会に行き渡ると所有の概念は一層明確になってきたことでしょう。というのは貨幣はそれを所有するものがあることを前提に作られているものだからです。
さらに法律が出来ると「所有者、所有権」というような形で「所有の概念」が明確に定義付けられます。
これはそもそもそのような概念がなければ近代の法律が成り立たないからだ、と思います。
近代の法律は基本概念として、個人、自由、権利、義務等を有しますが、所有はこの中の権利のひとつとして重要な位置を占めています。ですから、この社会にいて無所得、即ち我が物として執着する心を持たない、と言っても簡単ではありません。
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でもそれについては出来ないことではなさそうです。
それは「この社会に行き渡っている所有の観念が約束ごとであって、絶対的な存在ではない、仮の姿であること」に気づけば良いのだと思うのです。
私は貨幣や法律が不必要なものだ、いうつもりは全くありません。現在の貨幣経済や法律が理想から見てどうか、というのはともかく、貨幣や法律はこの社会を成り立たせ、存続させていくための手段として必須だと思います。
でもそれらはあくまでも約束ごととして存在するものです。たとえば子供達がままごとをするにしても、そこに何かしら約束をします。私がお母さんであなたが赤ちゃんとか、この葉っぱはお金で、この泥団子は饅頭でいくらです、とかままごとをします。
ちょつと乱暴な言い方のように聞こえるかも知れませんが貨幣とか法律というのもそのような約束ごとの発展したものです。法律の基本概念である個人、自由、権利、義務等もそのような約束ごとから出てきた観念であって自然に存在するものではないのです。ただ法律は人々に守ってもらわないと、存在意義がなく、守ってもらうためには、その正統性を示す必要があります。かってはその正統性の根拠が神であったり、神から権力を与えられた絶対君主であったりしたのでしょうが近代国家の法律は、多くが自然法という概念に基づいているようです。歴史的に観ると、イタリアでのルネサンスでローマ法が復活し、やがてジャンジャックルソーが社会契約説を唱えて、それが封建社会を覆していきます。ルソーは、人間の本来の自然な状態を想定し、その状態では個人は皆が自由で平等であったが、ある時にお互いに契約して君主を立てた、と主張します。これは君主の権力が神から与えられた、とする王権神授説とは真っ向から対立するもので、それが故に封建社会を覆して、近代の民主主義を形成してゆくための原動力となる思想となったのでしょう。
近代国家の法律は日本の法律も含め概ねこのルソーの思想「自然状態では全ての個人が自由で平等である」を正統性の根拠としていると、思われます。
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でもよくよく考えればわかると思うのですが、誰も「自然状態では全ての個人が自由で平等である」と言うことを証明出来ません。むしろ皆がそう思う事によってそれが正当化させている、と言うのが実際の姿でしょう。
そもそも自由と言ったり、平等と言ってもそれほど明確な概念では ないではありません。
個人の責任とか、個性の尊重とか、自己責任とかいう言葉もよく使われます。
この個人とか自己というのも実際には明確な存在ではありません。しかしそれを曖昧模糊としたままでは約束ごとは出来なくなるので、お互いに明確なもののようにしておく、というのが実際の姿だ、と思います。
自己の存在をつらつら思うに宇宙の森羅万象と繋がっています。だからこの自己というのは宇宙全体と不可分の存在であってどこからどこまでが自己で、どこから先は自己でない、という境界はありません。
この肉体が自己でそれ以外は他者である、という考えは成り立ちますが、この肉体を宇宙全体と切り離してイメージすることは不可能です。
実際生きている限り呼吸をします。もしこの肉体が自己としたらこの吸ったり吐いたりしている空気のどこまでが自己で、どこからが他者なのでしょうか。
また三度の食事で体内に取り込み食べ物はやがて自己の肉体の一部と化し、また肉体の一部は絶えず役目を終えて肉体から排出されていきます。
それらの食べ物や役目を終えた細胞は、どこまでが自己で、どこからが他者なのでしょうか。
そのように肉体を自己としても、この宇宙と明確な境界を見分けることは出来ません。
デカルトは「我想う。故に我あり。(Ich denken also bin ich)」と言ったそうです。これは自己の存在を肉体の方からではなく、心の方から確認しようとした結果の考え方と言えるでしょうか。
しかし「我想う、故に我がある」とすれば「想わなければ我はない」ということなのでしょうか。
たとえばぐっすり眠りこけている時などは何も想っていないので我はない、のか?
デカルトは存命しないのでこの疑問に答えてはもらえないでしょうが、想像するにデカルトはこの「我想う。故に我あり」ということで、自己の存在を確認した、と言いたかったのかも知れませんが、この「我想う。故に我あり」という言葉自身が絶対的な自己の存在がないことを語っているようにも思えます。
それから、「我想う」と言ってもその想いがどこから生じているのか、は考えてみる必要があります。
私は何かを考える時、自分が考えている、と思うのですが、その考える時に使っている言葉や概念は、この社会が与えてくれたものです。
だから、自分が考えている、と思っても実際にはこの社会の流れが自分にそのように考えさせている元にある、ということで、やはりそこには我という人間社会や宇宙から独立した存在はないのです。
一方絶対的な個の存在を否定してしまうと、個人の責任であったり、義務、権利というものもないことになって、法律というものも成り立たなくなってしまいます。
ですからいくら我の存在、個人の存在が曖昧なものであったとしても、法によって社会秩序を保っていくために約束として個人の存在を前提することは不可欠になります。

個人の存在を前提することにより権利、義務、責任、所有等の概念も明確な意味を持ち得ます。
個人の存在が曖昧模糊としたものとしてしまうと、権利、義務、責任もそして所有も曖昧模糊としたものになり、法律も正当性を失います。だから法律にもとづいて社会を形成する為には個人の存在を前提することが必要になります。
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話が大分長くなってしまいました。
私が言いたいのは、このように人類が社会を形成してゆく過程で、個人とか所有という概念も作られてきた、と言うことであり、またそのことに気付くことで個人とか所有の概念への執着から自由になれる、と言うことです。

by masaaki.nagakura | 2014-10-13 13:22 | 自在心の探求
小川町の人と自然70 朽木の豊かな林作り
我が家は官の倉山という山の麓にあります。我が家の家の裏はコナラを主とする林です。
これを活性化しようと模索していますが、一つのアイディアは朽木の豊かな林にしようという事です。
それはクワガタが沢山育つ林にしたいからです。カブトムシは落ち葉があれば育ちますがクワガタは朽木がないと育たない、と聞いています。カブトムシの幼虫は朽ちた葉を食べるのですが、クワガタの幼虫は朽ちた木の中で朽ちた木を食べて育つという事です。
稲刈りを手伝っていただいた森本さんは朽木に住む虫に詳しいので一緒に裏の森を歩いてもらいました。
森本さんは愛媛大学で「クロツノツヤムシ」という朽木の中で子育てをする昆虫を研究したという事です。ガラス瓶の中にその夫婦と幼虫を一緒に飼い、実際に子育てをする生態を観察して卒業論文にした、という事です。
これは森本さんにメールで送って頂いた「クロツノツヤムシ」の写真とスケッチです。
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ところでクロツノツヤムシは九州と四国の高山にしかいないようで、この辺で育てるわけにはいきません。
クワガタならこの辺で捉えたこともありますし、大丈夫でしょう。
さて裏山にはすでに相当朽木が出来てきています。

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森本さんの話ではこの林はクワガタなどが育つ朽木の林として相当有望という事です。
あとは樹液を出す木を作りたいです。クワガタもカブトムシも樹液を食物とするので樹液は不可欠です。
樹液を出す木としてはクヌギが良いようです。この林は大部分がコナラですが、クヌギも点在します。
ところが樹液を出す木は見当たりません。どなたかクヌギやコナラに樹液を出させる工夫をご存じないでしょうか?

by masaaki.nagakura | 2014-10-13 09:10 | 小川町の人と自然
小川町の人と自然69 稲刈り
今年もMASASHIさんの田んぼの稲刈りです。手刈りとバインダの両方で刈っていき刈った傍から束ねていきます。
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今年は大分イノシシに荒らされています。これは結構大きなイノシシの糞。鎌と比べてみてください。
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そして少し離れて可愛い糞。
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これは足跡です。
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近所の人が犬を散歩させていたら、吠えるので見たら、親子連れのイノシシがいたという事で多分そのイノシシ親子の糞でしょう。
お昼です。
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岡本農園でもらった竹で稲かけを作ります。
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以上は10月11日。一枚の田んぼは済みましたが、もう一枚あります。
ここから次の日12日です。ここは水が引いてないところが多く足を取られます。イノシシもここには入っていない。
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でも大勢助成してくれたおかげで午後2時過ぎに終わりました。
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最後に落穂ひろいです。
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子たちは電車ごっこに興じていました。

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by masaaki.nagakura | 2014-10-12 18:39 | 小川町の人と自然
自在心の探求5 怖れ
人が本来持っている自在心を奪っているのが怖れであり、自在心を取り戻すには無畏、すなわち怖れなき心が必要なのではないだろうか、でも怖れって何だろうか、それを取り除くって出来るのだろうか、というような話をしました。元々の怖れというのは、起こり得る危険を避けるために与えられた本能的な感覚ではないのでしょうか。これは人間にかぎらずあらゆる動物が自らの身を守るために持つ必須の感覚で、これを失うとたちまち危険にさらされるでしょう。だからもし、自在心を得るために怖れを除く必要があるとすれば、自在心を得るためには身を危険にさらさなければならない、ことになります。
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思うに観音教でいう「無畏」や般若心経でいう「無有恐怖」というのはそのような危険を察知するのに必要な怖れの感覚を無くした状態を言うのではないのです。
般若心経では「無有恐怖」という言葉が「以無所得故、菩提薩埵、依般若波羅蜜多故、心無罣礙、無罣礙故、無有恐怖、遠離一切顛倒夢想、、究竟涅槃。」という節のなかに出てきます。この中で般若波羅蜜や涅槃という奥深い境地に達しないと判らないであろう言葉を除くと「以無所得故、心無罣礙、無罣礙故、無有恐怖、遠離一切顛倒夢想」となります。この言葉を私なりに解釈すると「わがものとしての執着がなく、執着がないから、心に曇りがなく、曇りがないから怖れがなく、ありのままに観る」ということになります、
これを我々凡夫の側から見ると「わがものとしての執着があるため、心に曇りが生じ、曇りが生じるので怖れが生じ、ありのままに観れない」という解釈になります。
この解釈からすると、「わがものとしての執着がもととなって怖れが生じる」ということです。 また避けるべき怖れというのはわがものという執着から派生した怖れであって、生命として危険を察知する怖れの感覚ではない、という事にもなります。
ことわざに「身を捨ててこそ浮かぶせもあれ」というのがありますが、これも同じような事を意味していると思います。
では「わがものとしての執着」は捨てられるのでしょうか? あるいは「身を捨てる」ことは出来るのでしょうか? これについては稿を改めます。

by masaaki.nagakura | 2014-10-11 07:09 | 自在心の探求
自在心の探求 4 無畏
前稿の余談にて観世音菩薩と観自在菩薩は同じ菩薩でこれらの菩薩が出てくる観音経と般若心経に共通するのは無畏ということ、と話しました。観音経では観世音菩薩が施無畏者とされます。施無畏者というのは、「怖れなき心を与える者」という意味でしょう。般若心経には「無有恐怖」という言葉が出てきます。これは「怖れなき心の姿にある」ということでしょう。観世音菩薩と観自在菩薩は同じ菩薩ですから、この菩薩は「怖れなき心の姿にあり、また怖れなき心を与える者」である、ということになります。私を含め多くの人はしばしば、怖れに悩ませられるので怖れなき心の姿になりたいし、また怖れなき心を与えて欲しいのです。
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般若心経を唱えると、心が澄みわたる思いがするし、南無観世音菩薩と唱えれば慈悲の心に包まれて、怖れがなくなる思いがします。そして怖じ気づいた心から解放されてまたより良く生きていこう、とする勇気も湧きます。
しかし、般若心経を唱えたり、南無観世音菩薩と唱えるだけで自らの中の心の濁りがすっかりなくなるわけではなく、一切の怖れから解放されるわけでもありません。
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確かに怖れは、人から勇気を奪い、その人が本来持つ力を閉じ込めてしまうようです。別の表現をすると、「怖れは自在心を失わさせる」のです。
では自在心を得るためには怖れを取り除ければよいのでしょうか。そしてもしそうであったとしても、怖れを取り除くということが出来るのでしょうか?この話の続きは次稿にて。
by masaaki.nagakura | 2014-10-09 04:21 | 自在心の探求
自在心の探求3 自在の起源
タイトルに自在という言葉を使ったのは、私が時々唱えている般若心経に出てくる観自在菩薩のイメージからです。この般若心経には「何ものにも束縛されない自在な心の姿」が表されている、と思います。
でも実際にそのような自在な心の状態に成りきるのは極めて難しいのです。少なくも私にとって至難のわざです。そして多分私以外の多くの人にとっても難しいのでないか、と思います。
もし簡単に自在な心が得られるなら、何も「自在心の探求」などするには及ばないでしょう。
余談
観自在菩薩が観世音菩薩と同じだと教えて下さったのは元東京外語大学のベンガル語の教授であった奈良毅先生です。私が観音経と般若心経を唱えている、と言ったら、そのように教えて下さったのです。私はそれまで観自在菩薩と観世音菩薩は別のイメージでとらえていたので少し驚きました。そしてその話に若干の疑問も抱いてきました。ところが最近読んでいる「観音の来た道」(鎌田茂雄著)によれば、インドから伝わった法華経の翻訳をした鳩摩羅什が観世音菩薩と訳したのを玄奘三蔵が観自在菩薩と読み替えた、ということです。インドからの原語(サンスクリット語)のアバローキテーシュバの意味は「拝まれる最も尊い自在の力を有したもうお方」という意味だということで、それなら確かに観世音というより、観自在ですね。
とにかく観世音菩薩と観自在菩薩が本来同じ菩薩であることは確認出来ました。
私の知る限り観自在菩薩という菩薩の名は般若心経にしか現れてきません。
東アジアにおいて観世音菩薩は絶大な信仰を集めていて、多くの観音像が拝まれていますが、観自在菩薩像が拝まれている、という話はあまり聞きません。
サンスクリット語の訳としては玄奘三蔵が訳した観自在菩薩が正しいのに東アジアて普及したのは観世音菩薩であったのは何故でしょうか?また鳩摩羅什が敢えて観世音菩薩と訳したのは何故でしょうか?私は鳩摩羅什が観音経全体の意味を汲んで観世音菩薩と訳したのでないか、と思います。観音経の中で観世音菩薩はその名を唱えた全ての人を救済すると、されています。このことはこの菩薩が信仰を集める由縁で、そのことに着目すると観世音菩薩という訳はいかにも相応しいです。
さて般若心経の観自在菩薩と観音経の観世音菩薩が同じ菩薩として、この二つの経典にある共通点は南でしょう?
私はそれが「無畏」ということでないか、と思います。
この事に関しては稿を改めます。
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by masaaki.nagakura | 2014-10-05 06:13 | 自在心の探求