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世界平和のための老子(21)おわりに
 老子の「無為自然」、孔子の「思い邪なし」、孔子の「意なく、必なく、固なく、我なし」、釈迦の「諸法無我」、キリストの「明日を思い煩うなかれ」。 これらの言葉の根底に共通にあるのは「存在に対する限りなき信頼感」であると思います。 この信頼感の対象を敢えて言えば「母なる大自然」であったり「道」であったり、「神」であったり、「法」であったりするでしょうが、それが何であろうと「限りなき信頼感」が真の安心をあたえ、人と人の間に心底からの繫がりをつくり、光に満ちた世界をつくっていくと思います。
 自らを顧みると、その限りなき信頼感に至るには程遠い状態にあると感じます。
 そして現在の世界を観ても、多くの人々が不信感、不安、恐怖の内に呻吟しているように思います。

 それでも私にとってまた世界にとって進むべき方向はそのような大いなる信頼感の回復である、と思います。
 それこそが人と人の絆を深めさせ、人と自然との繫がりも豊かなものとし、世界を平和に導くものと思います。

 老子についていろいろ語って来ましたが、老子から最も学ぶべきことはこの大自然、大宇宙への限りなき信頼感である、と思うのです。

 老子についての話はひとまずお終いにしますが、私自身がこの老子の「大道」に一歩ずつでも近づいていきたいと願っている次第です。
by masaaki.nagakura | 2012-11-21 13:22 | 世界平和のための老子
世界平和のための老子(20)小国寡民
 この辺で老子の話しをお終いにしようと思って、いたのですが、老子の「小國寡民」という思想については一つ話しておきたいと思います。

 第80章(全文)
 小國寡民。使有什伯之器而不用、使民重死而不遠徙、雖有舟輿、無所乗之、雖有甲兵、無所陳之。使人復結繩而用之、甘其食、美其服、安其居、樂其俗、鄰國相望、雞犬之聲相聞、民至老死、不相往來。

書き下し文
小国寡民。什伯の器有るも而も用いざらしめ、民をして死を重んじて而して遠く徙らざらしめば、舟輿有りと雖も、これに乗る所無く、甲兵有りと雖も、これを陳ぬる所無なからん。人をして復た縄を結びて而してこれを用いしめ、その食を甘しとし、その服を美とし、その居に安んじ、その俗を楽しましめば、隣国相い望み、雞犬の声相い聞こゆるも、民は老死に至るまで、相い往来せざらん。

翻訳:国は小さくて民は少い。様々な道具があるが、用いないようにし、人々が身体を大切にし、遠方に移って行かないようにする。 船や車があっても乗るわけでなく、武器があっても並べることはない。人はまた縄を結んで用い、その食を美味とし、その衣装を美麗とし、その居住するところに安んじていて、その風俗を楽しま、隣国同士が見えていて、鶏や犬の声が聞こえていても、老いて死ぬまで行き来することがない。

 これは観方によっては人間の文明を否定するような思想です。
しかし、この表現によって老子が主張したかったことの一つは循環志向ということ、そして地方分権という方向性でないかと思うのです。
老子が生きていた時代は農耕の発達により、多くの国家が現れ、覇を競っていた時代だと考えられます。
いずれも強大な国家(大国)をめざしていたでしょうが、老子はそれに対して「小国寡民」ということばでアンチテーゼを唱えているのです。 このことは当時の拡大志向型が主流の時代に在って、循環志向への道を示したものとも言えるでしょう。
 それにしても船や車を用いず、隣国と行き来することもない、とは相当極端な言い方です。
 これをまともに解釈したら原始時代に復帰しなさいと、言うようなものです。
 しかし私は、これは循環志向への主旨を強調するために敢えてした表現であると思います。
 この文章には「船や車があっても用いない」とあります。船や車があるという社会は既に原始時代ではなく文明化されている社会です。それでも敢えて用いないというのはそれら文明の利器に依存しない生き方を強調しているのだと思います。

 近代文明はこれまで拡大志向であったのですが、これからは持続可能性の追求、すなわち循環志向に転じていくことが必要です。 ところで私自身は近代文明が循環志向に転じていくためには科学技術は必要と考えております。これまで拡大志向的な方向で進んできた科学技術の利用を循環志向的な方向の利用に変えていく、というのが持論です。  したがって私の未来社会の像は老子の小国寡民ではなく、科学技術を高度に発達させ、必要に応じてそれを自在に用いることも出来る社会です。 
 
 しかし、老子の文明に依存しないという、循環志向はたとえ文明が高度に発達した段階でも必要な精神と思います。 また小国寡民という表現の中に含まれる地方分権的な発想は注目すべきと考えています。

循環志向の目的は持続可能な社会を構築です。そのための科学技術は必要です。しかし、持続可能な社会の構築は科学技術の発達のみで達成されるものではなく、同時に物質文明に依存せずに生きていいける肉体と精神の力を養うことも不可欠です。  如何に精巧に構築された物質文明であっても弱点を持ち、それにより訪れる危機から救うのがが精神力と肉体の力であるためです。
 またグローバリズムの進行する一方で地域社会の絆を深め、様々な危機に望んで相互に助け合える精神(昔は普通にあって、現在希薄になっている精神)も不可欠です。
 老子の「小国寡民」はそのような世界への想いを暗示するものと思います。
by masaaki.nagakura | 2012-11-02 13:16 | 世界平和のための老子
世界平和のための老子(19)「足るを知る」について補足
 世界平和のための老子という表題で老子の思想について自分なりの観方を語って来ました。
 そして、老子の「足るを知る」という思想が世界に広まり、それが世界大戦を未然に防ぎ、更に持続可能な世界を目指す新たな時代への活路を切り開いていくであろう、という趣旨の考えを示しました。
 このような考え方には多分いろいろな反論も出されると思います。

 特に「足るを知る」という考え方自体が、近代の思想からするといかにも消極的で、そのような考え方でこの時代が乗り越えられかということ、それに本当にそんな考え方が今の時代に広がるのであろうか、という疑問が出されるでしょう。

 この疑問に対する答えになるかは判りませんが、「足るを知る」という思想についてもう少し補足したいと、思います。
 この老子に関するシリーズの中で老子の思想の根底には「自己存在、人類、あらゆる生命、あらゆる無生命が母なる宇宙始原、母なる大自然と一体であり、母なる大自然にはぐくまれ、絶対的に守られている」というインスピレーションが存在する、という話をしました。
 老子の「足るを知る」という思想は根底にこのようなインスピレーションがあってこそのものです。

 まずこのことに思いを致さない限り、老子の「足るを知る」思想は理解し難いものとなるし、あるいは「やせ我慢をしろ」という思想と同一視されるでしょう。

 思うに近代に最も枯渇しているものがあるとすれば、それはエネルギー資源でもレアーアースでもなく、まさに上記のインスピレーションです。
 
 残念なことにこのインスピレーションは私にも不足していると感じています。
 常に何らかの欠乏感に悩まされてるいます。

 しかしそれでも自らの内に「自らもまた母なる宇宙始原、母なる大自然と一体に違いない」と言う信念が確かに芽吹いているのを感じます。 そしてこの信念は私だけでなく、多くの人に芽吹きつつあると思うのです。

このことが私が「足るを知る」思想がやがて全世界に広がり、世界大戦は防がれ、人類が共同して現在のそして来るべき共通の困難に立ち向かっていくであろう、という楽観論を強く主張する最たる所以です。


 

 


 
by masaaki.nagakura | 2012-11-01 15:56 | 世界平和のための老子