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世界平和のための老子(16)非戦論⑥ 足るを知ることで戦争は無くなるか
 老子の「足るを知る」の意味は「宇宙に対する限りない信頼感を持って現状をそのまま受け入れる」ということである、という話をしました。
 ではもしそのような思想が全世界に広まったとしたら戦争はなくなるのでしょうか。もちろんその前にそのような思想を全世界に広げることが出来るだろうか、という問題がありますが、この問題については後で検討することにし、ここでは仮にそのような思想が広まったとしたら戦争がなくなるか、ということについて考えてみます。
 
 「人類の歴史は戦争の歴史である」と言われることがあるように、人類の歴史ではいつの時代にも戦争があったようです。そのことから見ても近い将来に戦争が全くなくなるということは考えにくいのです。私もこの50年位の間に戦争が全くない時代が到来するとは思えません。 その頻度は減少していったにしろ、世界のどこかで紛争、あるいは小さな規模の戦争のような状態が発生するのを防ぐのは難しいと思います。しかし、やはりどうしても防がなければならないというのは、近代以降に発生した非常に大勢の国民を巻き込んでいく国家間の戦争です。 以下では「戦争が防げるか」という意味を「近代の過去に発生したようなに大きな国家間の戦争を防げるか」と解釈した上で話しを進めます。
 
 私はそのような意味において「戦争は防げる」と考えています。そのひとつの根拠は東アジアの歴史です。 日本、中国、朝鮮、台湾を含む東アジアの近代以前の長い歴史を振り返って見ましょう。
 この地域においては歴史的な尺度からは極く短い期間に置いて国家間の戦争はあったのですが、数千年の間、ほとんどの時代において国家間での平和な関係が続いてきています。
 このような平和な状態が世界全体において末永く継続することは可能であろう、と考えています。

 東アジアにおいて戦争が起こったのは西欧の列強(当時)の東アジアへの進出が産業革命を背景に活発化してきてからのことです。 残念ながら日本がその戦争を引き起こした台風の目になったのは歴史的な事実ではあると思います。その日本の歴史には日本人として反省すべき数々の問題があると思います。しかし、一方においてその日本の戦争への傾斜を惹起した背景には西欧列強によるアジアの植民地化があり、それが当時の日本人をして、戦争行為を正当化させた理由のひとつになっていたのもまた歴史的な事実でありましょう。 
産業革命と科学技術の発達は人類に過去になかった物質的な豊かさをもたらしたでしょうが、一方において人類に「自然は支配出来るものである」という傲慢な錯覚を与え、それが人類に限りない支配欲を植え付け、その支配欲は自然に対するばかりでなく、人類そのものに向けられていった、というところに近代の戦争の底辺に横たわる心理的な構造があるように思います。
 近代以前に人々が普通に持っていた自然に対する畏敬の念が失われ、それが人間に対する畏敬の念も薄めてしまい、安易に多くの人を殺傷する近代の戦争を導いたのでないか、と思うのです。

老子の「足るを知る」の思想はこの宇宙、この大自然に対する限りなき信頼と畏敬から来るものであり、それがまた全人類、全生命への信頼と畏敬に繫がっています。
 そのような思想は本来特別なものでなく、素直になれば誰の心にも存在するものです。この心を取り戻しさえすれば、近代において過去に起こってしまったような悲惨な戦争は起こるはずはない、と思います。
 
 
 
 
 
by masaaki.nagakura | 2012-09-27 13:58 | 世界平和のための老子
世界平和のための老子(15)非戦論⑤ 足るを知るの意味

 「足るを知らざることから戦争が起こる」という老子の思想について話をしました。
 またその事に関連して、次を考えて見る必要がある、ということを話しました。

(1)老子いう「足るを知る」の意味は何なのか?
(2)「足るを知る」ことにより本当に戦争は無くせるか?
(3)「足るを知る」思想を世界に広めることは可能であろうか?

 ここではまず「足るを知る」とい言うことの意味を考えてみたいと思います。

 老子の言う「足るを知る]という言葉はよく考えてみると解釈の難しいところがあります。
 第46章の最後に「足るを知るの足るは常に足るなり」という言葉が有ります。
 この意味をとりあえず「足るを知るの足るということは物質的過不足に関わらず常に足るという気持ちを持つことである」と解釈してみましたが、この解釈にも無理がありそうです。
 例えば食料が不足して今にも死にそうな時にそれでも足るという気持ちを持つ、ということには納得がいきません。 また常に足るという気持ちであれば、何かを求めようとする気持ちにもならないでしょう。
 私はこの「足る」というのは「現状をそのまま受け容れる」ということではないかと思います。

 この「そのまま受け容れる」というのは人間に対する観方にも現れます。

 第49章(全文)
 聖人無常心、以百姓心爲心。善者吾善之、不善者吾亦善之、徳善。信者吾信之、不信者吾亦信之、徳信。聖人之在天下、歙歙爲天下渾其心焉。百姓皆注其耳目、聖人皆孩之。
(聖人は常の心無く、百姓(ひゃくせい)の心を以って心と為す。善なる者は吾れこれを善しとし、不善なる者も吾れまたこれを善しとす。徳善なればなり。信なる者は吾れこれを信とし、不信なる者も吾れまたこれを信とす。徳信なればなり。聖人の天下に在るや、歙歙として天下の為に其の心を渾(にご)す。百姓皆その耳目を注ぐも、聖人は、これを皆孩(がい)とす。

訳:聖人は一定の心を持っていない。 万民の心を心とする。善なるものはこれ善とし、不善なるものもこれを善とする。 その徳が善であるためである。信なるものはこれ信とし、不信なるものもこれを信とする。 その徳が信であるためである。聖人は天下にあって天下の為にその心を濁す。万民は其の耳目を注ぐが、皆を赤子のような心にしてしまう。

 ここには善なるものも不善なるものも、信なるものも不信なるものも同じく受け入れるという、底なしの抱擁力が表されています。 これは「足るを知るの足るは常に足る」と言う底なしの受容力と相通じるものです。
 
 総じて老子の思想には人間に対しても現状に対しても「そのまま受け入れる」という心が流れています。
 しかし、この「そのまま受け入れる」と言うことは「だから行動をしない」と言うことではないでしょう。
 「腹がへっていても、その状況を容認し、食べない」ということではなく「腹がへっている状況を容認し、食べる」と言うことです。

 「それなら我々普通の人間と同じでないか」と思われるでしょう。実際老子のような考え方をもったとしても、その行動が特別に常人と異なるようには見えないかも知れません。

 しかし、我々にあって老子の中に見出せないの「不安と疑念」です。
 私を含めて多くの人には常にどこかに不安と疑念が漂っています。その不安と疑念の原因は個人により、また時によりいろいろでしょうが、根本にあるのは「存在していることそのものへの不安」で、それがいろいろな形を取った不安、疑念として表れて来ます。
 老子の「常に足る」と言うのは「現状をそのまま受け入れる」ということだ、と言いましたが、より詳しくは「不安や疑念を伴わずにそのまま受け入れる」と言うことになります。

 では老子はどうしてそのような心の持ち方が出来るのでしょうか。
 それは老子の宇宙観から来るものと思います。老子の思想の中にはこの宇宙に対する限りなき信頼感があります。 「母にやしなわるるを尊ぶ」と言う言葉が第20章に出て来ますが、この母と言うのはこの私たちを生み出した大自然(宇宙)です。
 老子の「足るを知る」という言葉の背景にはこのような宇宙に対する絶対的な信頼感があります。
 「不安や疑念を伴わずに」ということは言い換えれば「宇宙に対して限りなき信頼感を持って」ということです。 

以上より老子の「足るを知る」の意味は「宇宙に対する限りなき信頼感を持って現状をそのまま受け容れる」という意味と解釈します。
 
 



 
by masaaki.nagakura | 2012-09-21 13:38 | 世界平和のための老子
世界平和のための老子(14)非戦論④ 尖閣列島問題に思う
 最近日本による尖閣列島の国有化に端を発して、中国に於ける反日運動が盛んになり、一方それに対する日本国内での反発や論議が激しくなってきています。日本と韓国の間では竹島の問題もくすぶっています。
 
 ここで老子の次の章を顧みたいと思います。
第61章
大國者下流。天下之交、天下之牝。牝常以靜勝牡。以靜爲下。
(大国は下流なり。天下の交、天下の牝なり。牝は常に静を以って牡に勝つ。静を以って下ることを為せばなり。)

訳:大国は大河の下流のように、万物が流れ下り、交流する場である。世界の中で受動的な雌の立場にとどまる。雌は常に静かでありながら雄に勝つ。 静かにして下にいるからである。

 尖閣列島や竹島を巡る騒動が老子や孔子を生み出した中国とその教えを深く受けてきた日本や韓国との間で起こっていることは実に嘆かわしい話です。
 遠く日中韓の歴史を振り返ってみれば、途中で幾度かは戦乱があったもののほとんどの時代は平和に過ごしてたし、文化的交流も続いて来ています。 これは戦乱が絶え間無いようにあった西欧とは随分異なるし、日中韓が共に誇るべきことでしょう。 
 島の一つや二つを取り合って争うのはあたかも仲の良いはずの兄弟が目前のまんじゅうを取り合って騒ぐのに等しいことではないでしょうか。かっての君子国が小人国になってしまっているのではないか、と思うのです。
 相互にいろいろ理屈はありますが、それをお互いに言い立てているだけでは対立感情がヒステリックにエスカレートするだけで、解決には向かいそうもありません。
 私は敢えて提案したいのは「尖閣列島も竹島も各国による共同管理の場所とし、その活用方法については協議して決め、実行する。」ということです。 「これらの場所を争乱の場所とするのではなく逆に国家間の融和の場所として活用する」ということです。
 
 老子の「大国は下流」というのは、国家なるものは相互に下流になる、という謙譲の意識を持つのが良い、という意味を含んでいる、と思うのです。 尖閣列島や竹島を相互に譲りあい、共同で活用する中から、新たな世界の潮流を創りだしていけないでしょうか。
 日中韓の合流するこの東アジアが世界を近代から脱皮した新文明の発祥の地となるように望む次第です。
 
by masaaki.nagakura | 2012-09-20 08:55 | 世界平和のための老子
世界平和のための老子(13)非戦論③ 足るを知る
 老子の道徳経81章の中では「足るを知る」という言葉が次の章に出てきます。

第33章(後半抜粋)
 知足者富、強行者有志。不失其所者久。死而不亡者壽。
(足るを知る者は富み、強(つと)めて行なう者は志有り。その所を失わざる者は久し。死して而も亡びざる者は壽(いのちなが)し。)

訳:足ることを知る者こそが富んでいるものであり、努めて行う者こそ志があると言える。自己の本分をわきまえてそれを見失わない者こそ久しく行動を続けられし、自己は死してもその魂が伝えられてゆく者こそ長い命の中に生きているものと言える。

第44章(全文)
名與身孰親。身與貨孰多。得與亡孰病。是故甚愛必大費。多藏必厚亡。知足不辱、知止不殆、可以長久。
(名と身と孰れか親しき、身と貨と孰れか多き。得ると亡うと孰れか病なる。この故に甚だ愛すれば必ず大いに費やし、多く蔵すれば必ず厚く亡う。足るを知れば辱しめられず、止(まるを知れば殆うからず。以って長久なるべし。

訳:名誉と身体はどちらが親しいものだろうか。 身体と財宝はどちらが大事なものだろうか。得ることと失うことはどちらが危ういことだろうか。それ故に極端に執着すれば、必ず多く費やす結果となり、多く蓄えれば、必ず多く失う。足るを知れば恥辱に合うことはない。とどまるところわきまえれば危うくない。長く久しく生きる。

第46章(全文) 
天下有道、却走馬以糞。天下無道、戎馬生於郊。禍莫大於不知足、咎莫大於欲得。故知足之足、常足。                     
(天下に道有れば、走馬を却けて以って糞(たづくり)す。 天下に道無なければ、戎馬、郊に生ず。禍(は足るを知らざるより大なるは莫く、咎は得んと欲するより大なるは莫し。 故に足るを知るの足るは、常に足る。)

訳:天下に道があれば、軍馬も田んぼで使われる。天下に道がなければ軍馬が戦争で郊外に引き出される。
 禍いは足るを知らないより大きなことはない、咎めは得ようと欲するより大なることはない。「足るを知る」という足る、というのは(物資の過不足にかかわらず)常に足る心をもつことである。

 これらの内第46章はこのブログの非戦論①に記したものの再掲ですが、特に「戦争の原因が足るを知らざることにある」という意味を含んでいるものです。
 この言葉が真理を語っているとすれば、「足るを知らざる限り戦争は起こる」ということになり、また「戦争を防ぐには人類全体が、あるいは少なくも大多数の人々が足るを知ること、が必要である」ということになります。そしてもしそうであるとすれば、戦争を防ぐためには自分を含めてですが人類の大多数の人が「足るを知る」ような思想を広めて行く必要がある、ということになります。
 しかし、現在の世界は経済的なグローバリズムが進行中です。 ほとんどの人々が世界経済全体の影響を受けて生活し、而もその経済的な環境の中で自らの生活を成り立たせていかなければならないのです。
 あるいはこのような状況のもとでは「足るを知る」という思想を持ったことによってこの経済的な環境に適応できなくなり貧窮に陥る可能性もないとは言えないでしょう。
 そこで次のことをもう少し突っ込んで考える必要があるように思います。
(1)老子いう「足るを知る」の意味は何なのか?
(2)「足るを知る」ことにより本当に戦争は無くせるか?
(3)「足るを知る」思想を世界に広めることは可能であろうか?
この問題に関しては稿を改めたいと思います。
by masaaki.nagakura | 2012-09-12 13:11 | 世界平和のための老子
世界平和のための老子(12)非戦論② 現在における戦争の可能性
 本論では現在の世界における戦争への可能性について考えます。
 第2次大戦に於いて日本が降伏した1945年からすでに67年が経過し、その間世界大戦はなかったものの、朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争等国家間、思想間の対立による戦争、民族紛争、宗教的な対立による紛争等が絶え間なく続いてきました。 
 日本について言えば戦争には未だ至っていないにしろ、北朝鮮との武力的な威嚇も伴う対立があり、最近では韓国、中国との領土問題をめぐる対立が嚴しくなってきているようです。
 このような対立がすぐに戦争に結びつくとは考えにくいのですが、やがてその対立がエスカレートして戦争に発展する可能性もないとは言えない状況です。

 私は戦争へ向かうときは次の意識が伴われている、という話をしてきました。

(1) 存在感への脅威の感覚
(2) 屈辱感からの開放を求める意識
(3) 共通の敵に対する敵愾心
(4) 国民全体を巻き込む共感
  
このような意識が2国間の間の両国民に顕著になってきた時には戦争に至る可能性が高まっていると見るべきでしょう。
 日本と韓国あるいは中国との間にはまだそこまでの意識はないと思いますが、一方でこのような意識を敢えて扇動しようとする動きもあるように思います。
 特に「共通の敵を創りだしす」というのはおそらく国家の指導者が国民を鼓舞し、団結させ、一つの方向に向けて行くために用いられてきた安易な方法です。
 国家の安定した存続が危うくなり、その指導者が批判の矢面に立たされているときには「共通の敵を外部に創りだしてそれに国民の注意を向けて、国家の統一を維持しよう」というのは指導者にとって退け難い誘惑になる可能性があります。 特に経済的困窮からくる不安、絶望感が社会に広がっている状況においては「共通の敵」を創りだそうとする指導者の扇動に國民の多くが乗せられて、戦争へと突き進んでいく可能性があります。 しかし、国家全体が経済的な困窮に陥ってしまうと戦争して勝利する可能性もなくなり、従って戦争に至る可能性も少なくなります。 より戦争に向かいやすい状況というのは国家の中に経済的な困窮に陥っている人達が増えてきて社会全体として未来への不安が高まっている状態で、且つ国家としては戦争をするだけの経済的、軍事的な力を持っている状態です。このような状況は日本、韓国、中国、北朝鮮の何れでも起こりえます。 歴史が示す通り、経済は好況と不況の小さな波、大きな波があり、その大きな不況の波が訪れる時に最も大きな戦争への可能性が発生すると考えられるのです。 
 実際 第2次世界大戦の前には世界好況に継いで日本、ドイツ、イタリアなどの当時の同盟国は何れも経済的困難に直面しており、それが第一次大戦を引き起こした一つの原因になっていたことは否めないでしょう。 現在でも同じような経済的な局面が発生し、それが新たな戦争の引き金になると言う可能性は否定出来ないでしょう。
 ただし、第一次大戦の当時と現在では国際情勢に著しい変化があり、単なる経済的な問題が戦争の要因となる、という考え方も成り立たないと思います。 一つの大きな変化は国際間の人々の行き来が多くなり、海外での生活や旅行の経験者は著しく増えていることです。日本では第一次大戦に駆りだされた人々の中には外国人を観たことのない人も多く、米英鬼畜というような敵愾心を煽る言葉に駆り立てられたのですが、現在では誰もそのような言葉には載せられないでしょう。またグローバリズム化は国家間の経済的な障壁を取り除いてきており、国家というものの存在感を希薄にしつつあります。
 こういう状況から、経済的困難が戦争に直結するという危険性は第2次世界大戦以前に比すると相当少なくなっていると考えられます。
 しかし、長期的に観た場合にはエネルギー源の枯渇や地球温暖化による気候的、地理的変動の影響が全世界的に未来への不安、経済的な逼迫をもたらし、それが何かのきっかけに戦争に発展する可能性は否定できません。 
 
 
 
by masaaki.nagakura | 2012-09-03 13:17 | 世界平和のための老子