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世界平和のための老子(11)非戦論 ①老子の平和思想
 人類に精神的な影響を非常に深く与えた昔の人物としては釈迦、ソクラテス、老子、孔子、キリストでしょうか。  いずれもコスモポリタズムといって良いかわかりませんが、国家間の戦争を是とする思想は説いていません。 老子はこの中でも戦争を忌避する考え方を明確にあらわしています。

第30章(前半抜粋)
以道佐人主者、不以兵強天下。其事好還。師之所處、荊棘生焉、大軍之後、必有凶年。
(道を以って人主を佐(たす)くる者は、兵を以って天下に強いず。その事は還るを好む。師の処る所は、荊棘生じ、大軍の後は、必ず凶年あり。

訳 道によって主君を補佐しようとするものは武力によって天下の強者となろうとしない。武力はそれを用いないでいることを良しとする。軍隊のとどまるところにはイバラが生える。大戦争の後には凶作の年がつづく。

第31章(前半抜粋)
  夫兵者不祥之器、物或惡之、故有道者不處。君子居則貴左、用兵則貴右。兵者不祥之器、非君子之器。
(夫れ兵は不祥の器、物或いはこれを悪(にく)む、故)に有道者)は処(お)らず。君子、居れば則(すなわ)ち左を貴(たっと)び、兵を用うれば則ち右を貴ぶ。兵は不祥の器にして、君子の器にあらず。)

訳 強力な兵器は不吉な道具である。 道を知るものはそれを厭う。君子は左を尊ぶが、兵器を使うときは右を尊ぶ。 兵器は不吉な道具であって、君子の道具ではない。 
 
第46章(全文) 

天下有道、却走馬以糞。天下無道、戎馬生於郊。禍莫大於不知足、咎莫大於欲得。故知足之足、常足。                     
(天下に道有れば、走馬を却けて以って糞(たづくり)す。 天下に道無なければ、戎馬、郊に生ず。禍(は足るを知らざるより大なるは莫く、咎は得んと欲するより大なるは莫し。 故に足るを知るの足るは、常に足る。)

訳:天下に道があれば、軍馬も田んぼで使われる。天下に道がなければ軍馬が戦争で郊外に引き出される。
 禍いは足るを知らないより大きなことはない、咎めは得ようと欲するより大なることはない。「足るを知る」という足る、というのは(物資の過不足にかかわらず)常に足る心をもつことである。

 これらの文章からは老子の平和への切なる願いが伝わってくるように思います。また「足るを知らざる」ことが戦争の原因である、という老子の考えも伝わってきます。
 
ところで現在の世界の状況はどうでしょうか。 世界中の多くの人の中に「足るを知る」という心が失われ、それが戦争への危険を増大している、というような危惧を抱くのは私だけでしょうか。

 以下では現在の世界における戦争への可能性とそれを回避するための道を老子の考えを照らしつつ探りたい、と思います。

 第2次大戦に於いて日本が降伏した1945年からすでに67年が経過し、その間世界大戦はなかったものの、朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争等国家間、思想間の対立による戦争、民族紛争、宗教的な対立による紛争等が絶え間なく続いてきました。 
 日本について言えば戦争には未だ至っていないにしろ、北朝鮮との武力的な威嚇も伴う対立があり、最近では韓国、中国との領土問題をめぐる対立が嚴しくなってきているようです。
 このような対立がすぐに戦争に結びつくとは考えにくいのですが、やがてその対立がエスカレートして戦争に発展する可能性もないとは言えない状況です。

 私は戦争へ向かうときは次の意識が伴われている、という話をしてきました。

(1) 存在感への脅威の感覚
(2) 屈辱感からの開放を求める意識
(3) 共通の敵に対する敵愾心
(4) 国民全体を巻き込む共感
  
このような意識が2国間の間の両国民に顕著になってきた時には戦争に至る可能性が高まっていると見るべきでしょう。
 日本と韓国あるいは中国との間にはまだそこまでの意識はないと思いますが、一方でこのような意識を敢えて扇動しようとする動きもあるように思います。
 特に「共通の敵を創りだしす」というのはおそらく国家の指導者が国民を鼓舞し、団結させ、一つの方向に向けて行くために用いられてきた安易な方法です。
 国家の安定した存続が危うくなり、その指導者が批判の矢面に立たされているときには「共通の敵を外部に創りだしてそれに国民の注意を向けて、国家の統一を維持しよう」というのは指導者にとって退け難い誘惑になる可能性があります。 特に経済的困窮からくる不安、絶望感が社会に広がっている状況においては「共通の敵」を創りだそうとする指導者の扇動に國民の多くが乗せられて、戦争へと突き進んでいく可能性があります。
 
 
by masaaki.nagakura | 2012-08-23 12:48 | 世界平和のための老子
世界平和のための老子(10)理想の人間像 ②古の士
 老子は理想の人物像あり方を表現する時に主語のない場合も多いのですが、主語を使い場合は聖人ということばをよく使います。次の章だけは「古之善爲士者」という言葉を使っています。 「昔の善き男児たるもの」、というようなニュアンスでしょうか。  

第15章(全文)
古之善爲士者、微妙玄通、深不可識。夫唯不可識、故強爲之容。予兮若冬渉川、猶兮若畏四隣、儼兮其若客、渙兮若冰之將釋、敦兮其若樸、曠兮其若谷、混兮其若濁。孰能濁以靜之徐清。孰能安以動之徐生。保此道者、不欲盈。夫唯不盈、故能蔽而不新成。
(古の善く士たる者は、微妙玄通にして、深きこと識るべからず。それ唯だ識るべからず、故に強いて之が容を為す。予として冬川と渉るごとし、猶として四隣を畏れるがごとし、儼として其れ客のごとし、渙として冰の將に釋けるがごとし、敦として其れ樸のごとし、曠として其れ谷のごとし、混として其れ濁れるがごとし。孰れか能く濁りて以って之れを靜かにして徐ろに清からん。孰れか能く安んじて以って之れを動かして徐ろに生ぜん。此の道を保つ者は、盈たさんと欲せず。夫れ唯だ盈たず、故に能く蔽れて而も新たに成さず。

第15章(訳)
昔の善き男児は微妙なる道に通じ、底知れぬ奥深さをを湛えている。その奥底を知ることはできないので強いてその相貌を表現する。 慎重なのは冬のさなかに川を渉る時のようであり、ためらっているのは四方の隣人を畏れるようであり、厳粛なのは客に招かれたようであり、和らぐ様は氷が溶けるがようであり、純朴なのは原木のようであり、広大な様子は谷のようであり、混沌としているのは濁れる大河のようである。 
 誰がよく、濁ったままにして次第に清く澄ませるだろうか、誰がよく、安んじたまま、事物を動かして次第に創造活動をなし遂げるだろうか。
 この道を保つ者は完全であろうと欲しない。不完全なところでとどまる。 それ故古びるままにして新たに成し遂げようとしない。

この「古の善く士たる者」も漠然として掴みどころがないようです。このような人が現代の世の中にいても賞賛の対象にはならないでしょう。 宮沢賢治の詩の中の「木偶の棒と呼ばれ、ほめられもせず、苦にもされぬ」ような人」になるかも知れません。 しかし、このような人物がいることにより、周囲の揉め事が何となく収まっていき、また周りの人も生き生きとして来るかも知れないと思います。
 「孰れか能く濁りて以って之れを靜かにして徐ろに清からん。孰れか能く安んじて以って之れを動かして徐ろに生ぜん。」という表現は、そのような意味すなわち、「自らは何もしないように見えるが、その人がいるだけで周りの人の心も澄んできて、諍いごとも自然に解かれ、その人がいるだけで周りの人が生き生きとし、それぞれの本分を発揮していく」という意味も含んでいるように思えます。
by masaaki.nagakura | 2012-08-06 12:46 | 世界平和のための老子