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小川町の人と自然(61)皿回しの記憶
若い頃(高校生の頃)に皿回しに凝って、相当上達したのですが、それを思い出して挑戦してみました。
難なくできてしまいました。
50年昔にやったことを身体が覚えていたのです。
もっともドンブリはやや難しくて1個割ってしまいましたが。
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by masaaki.nagakura | 2012-02-26 19:04 | 小川町の人と自然
小川町の人と自然(60)シイタケ用ホダ木の準備
私の住まいの裏山はコナラの林で今日は知り合いを一緒にシイタケ用ホダ木の準備をしました。
つまりコナラを伐採してチェーンソウで適当な長さに切るわけです。
コナラが倒れる方向をガイドするために倒そうとする木に綱をかけて別の木と結びます。
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一休みです。
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力をあわせたおかげで午前中だけでまあまあのホダ木が準備できました。
一か月くらい後にシイタケ菌を植え付ける予定です。
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by masaaki.nagakura | 2012-02-26 18:13 | 小川町の人と自然
小川町の人と自然(59)孫と散歩
まだまだ寒いので散歩はあまりしていないのですが、孫の充希(みつき)が来たので、と犬のグリゼルダをつれて久々に散歩をしました。充希はグリゼルダの綱を持ちたがり、好奇心からかどんどん遠くにいき、つられて3時間近くも散歩をしました。 
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グリゼルダも散歩に飽きたようです。
by masaaki.nagakura | 2012-02-22 13:06 | 小川町の人と自然
小川町の人と自然(58)プラムの剪定
私の住んでいるのは小川町の飯田で官の倉という山の麓です。
ここ2年ほど有志が集まり近隣の人の所有しているプラムの林の手入れをしています。
この日はプラムの剪定で沢山の枝が出たので、焚き火をし、昼は鍋料理でした。
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by masaaki.nagakura | 2012-02-20 14:37 | 小川町の人と自然
想うこと7 良き未来に向けて(30)提唱まとめ
 良き未来に向けて次の5つの調和を提唱しました。

(1) 物資の生産と環境の創生の調和
(2)グローバリズムとローカリズムの調和
(3) 機能集団と地縁血縁集団との調和
(4) 中央集権と地方分権の調和
(5) 物質文明と精神文明の調和

 これらの提唱の趣旨は近代文明が拡大指向型文明であるのに対して循環指向型文明の特色を調和させて、新たな文明に向かわしめようということです。
 
 人類の歴史は拡大志向型文明と循環志向型文明の両極の間を揺れ動きつつ、進展してきました。
 ここに拡大指向型文明とは今日よりは明日、今年よりと拡大を目指す文明です。
 近代文明は物資の生産力の増強、グローバリズム、機能集団の拡大、中央集権化、物質文明の繁栄を目指してきました。 これらはそれぞれ生産力、市場、集団規模、国家権力、物質の豊かさという指標の拡大を目指してきたということで近代文明が拡大指向型文明であることを示すものです。
 一方「循環志向型文明」とは、「年々歳々あるいはそれより長い周期で同様の生活サイクルが繰り返される姿を求める文明」です。実際には自然界における気候や地殻の変動もあり、人工による自然界や人工物の変動があるので全くの循環型というのはあり得ないので、循環型というのはその時代に生きる人間が意思する方向性という意味で「循環指向型」という訳です。
 循環型文明に必要なるは環境の創生・保全、ローカリズム(地産地消)、地縁血縁集団の絆(家族、地域の結びつき)、地方分権(地方が自らの環境を創生)、精神文明(物質的には足るを知り、道を求める)です。
 
 ところで遠い未来はいざ知らず、近い未来においては近代文明の拡大指向型という特徴を全くゼロには出来ません。また近代文明の有する「進取の精神を重んずる」考え方等循環指向型の封建社会なはなかった採るべきものがあります。

 これが「拡大志向と循環志向を調和させて新たな文明を」という趣旨です。


(補足説明)
 人類の歴史において拡大志向型に向かわしめた大きな機縁は「道具の発明」「農業の発明」「熱機関の発明」という三つの産業革命であり、「道具の発明」は原始的な村落共同体を、農業の発明は古代国家を、熱機関の発明は近代国家を形成せしめる機縁となったのです。
 ところで拡大指向型はどこまでも拡大を続けるわけにいきません。
 それは自然界の方からの制約条件が存在するからで、その自然界の制約条件に突き当たると、循環指向型に転じざるを得ないのです。
 道具の発明は人類の狩猟能力を画期的に増強したので、人類の人口は飛躍的に増大したでしょうが、やがて人類の食料となる自然界での動植物の増殖能力の有限性という限界に到達し、そこから循環志向型に転じていったと推定されます。日本では縄文時代というのが循環指向型の時代と考えられます。
 農業の発明は食料の生産能力を自然界の生産能力を大幅に上回るまでに増大し、ここでまた人類の人口は飛躍的に増大しますが、やがて耕作や放牧に適した土地の有限性と人間の肉体の労働力(仕事率)の有限性という限界に到達し、循環指向型に転じていきました。
 これは拡大指向型の古代から循環指向型の中世といわれる時代に移行したということです。
 日本では弥生時代から平安時代までが拡大指向型で頼朝による武家政権の確立から徳川幕府の終焉までが循環指向型です。
 熱機関の発明は人間の労働力(仕事率)の有限性という限界を取り払い、農業、工業において飛躍的な生産力の増大を達成させてきました。しかし、またそこには自然の制約条件としてエネルギー源の有限性と生命に耐えられる環境汚染の限度という限界が立ちふさがりつつあり、循環志向型に転じざるを得ないという状況が出現しております。 
 ただ、これからの時代が循環志向だけで乗り越えられるかというと、そうではなく、むしろ産業面、生活面で人類の大きな変革が求められます。
 これまで科学技術は主に生産力の増大と新製品の開発のために使われてきましたが、それを環境保全、環境浄化、省エネルギー、人類と他の生命の共存のために使う方向に変えていくべきで、そのためにはこれまで以上に深い自然への理解と高度のテクノロジーが必要となるでしょう。
 生活様式も省エネルギーで環境負荷が少なく、他の生命と共存する形に変革していく必要があるでしょう。
 したがって循環志向といっても循環が成り立つに至るには、変革につぐ変革が求められます。
 これが近未来の姿であり、このような時代に向けて人類全体の英知を集めて向かいましょう。
by masaaki.nagakura | 2012-02-16 08:34 | 想うこと
想うこと7 良き未来に向けて(29)提唱5 物質文明と精神文明の調和(つづき2))
 近代社会の物質中心主義的な方向性を支える思想の第2は進化論的な考え方です。進化論と言っても特にその中にある弱肉強食的な発想が、物質中心的な方向性を支えています。
 本来一切の生命は一つのものであり、その生命と呼ばれるものも無生命と呼ばれるものと結んで一つのものとなっていて、これが宇宙とか神とか道とか呼ばれるものであると考えます。
 そして真に精神的なものはこの一切の存在の一元性に関する直観を伴います。
 一方、この生命界を弱肉強食の世界とみる見方はその直観を鈍麻させて、精神的な世界を見えにくいものにしています。
 確かに生命界には弱肉強食という姿がありますが、一方には相互協力という姿があります。その弱肉強食と相互協力と全て合わせて一つに繋がった生命界があります。進化というのも一つの生命体の発展していく姿であり、弱肉強食というのもその発展のための手段と考えるのが妥当です。
 この生命界を強食弱肉の世界とみる見方の背景には人間や生命を個の集合と捉える捉え方があります。
 実際には個をいくら集めても現実の生命界にはなりません。全生命は一つのものであって、一切の個はこの一つの生命の現れです。
 個が先にあって人間社会が成り立つ、という近代の考え方の一つの原点はルソーの民約論にあります。
 これは「自然状態では自由である個人が集まり、約束事を決めて社会を作った」というような考え方の様ですが、まったくの絵空事というべきものです。
 この思想は封建社会を打ち破るのに大いに役に立ったことは間違えないでしょうが、もともとが荒唐無稽の論理であるので、封建社会が過去のものとなった現在においては脱却するべき考え方です。
 この考え方が「人間は本来一切の人間と一つであり、また人間と他の生命もひとつのものであり、さらに生命も無生命も含む宇宙全体がひとつのものである」という真実から目をそらさせてしまい、多くの無意味な個人間や国家間の闘争を惹起しています。

 民約論については近代の民主主義の論拠ともなっていて、また個の存在は法律というものの前提ともなっているので、全生命はひとつである、というような考え方は受け入れがたいと捉えられるでしょう。
 しかし、個の存在を前提するのは人間が社会を成り立たせるために創作したものと考えた方が良いと思います。 
 現実の人間社会に生きる以上、責任ある個としてふるまうのは致し方ないことでしょうが、真の精神性というのは個の存在を超えたところにあります。
 その個の存在を超えたところに意識を集中させる、という古(いにしえ)の聖人の道を学ぶべきと思います。  そうしてこそ未来を良き方向に導くための知恵も生まれて来るでしょう。
 

 以上で「物質文明と精神文明の調和」という提言を終えます。
 明確な形の提言にはなっておりませんが、意は汲んでください。
 
by masaaki.nagakura | 2012-02-15 21:09 | 想うこと
想うこと7 良き未来に向けて(28)提唱5 物質文明と精神文明の調和(つづき1)
 近代における物質中心的な考え方の背景には産業革命によって齎された生産力の拡大がありますが、更にその物質中心主義的な考え方を正当化するものとして次の3つの思想があるという話をします。

1.近代科学をその背景とする唯物論的な思想
2.ダーウインの提唱より始まる進化論的な思想
3.ルソーにより提唱された民約論的な思想

1.近代科学をその背景とする唯物論的な思想
 近代科学は特に自然科学の分野においてニュートンの運動法則や万有引力の法則など自然法則の発見を機縁にして、大きな発展を遂げてきました。 一方では産業革命があり、自然科学とテクノロジーは両輪の輪のごとくに合い携えて発展してきました。この目覚しい発展は多くの人々を魅了し、人々の思想にも大きな影響を与えてきたし、現在も与えつづけております。
 一切の現象を物質界の現象と看做すのは、人間がなしうる一つの見方に過ぎません。
 しかし、自然科学によれば、例えば惑星の軌道など、非常に正確に予言し得ます。
 その他多くの物質界の現象は自然科学により理解できます。
 これが、科学が発達すれば、精神的な事柄も含めて全ての現象が物質界の現象として、理解できるようになるという思惑を生み出すにいたります。これが近代における唯物論的な思想の背景にある考え方です。
本来物質という概念はその対照である物質でないものがあって成り立ちえます。その物質でない物は心、精神、魂等と呼ばれるものです。
 ですから唯物論といっても心や精神が存在しないとは言うことはできません。もし、「心や精神は存在しない」というならば直ちに「では唯物論という考え方は物質なのか」と反論が出されます。
 そこで唯物論で主張するのは「心や精神は存在するが、その根底にあるのは物質であり、物質が心や精神を成り立たせている究極の存在である」ということになります。 
 確かに人の肉体が滅びてしまえば、その精神活動も停止てしてしまうように見えるので、この考え方は間違っているとも言い切れないでしょう。
 実際近代科学はこの考え方を元に精神の研究を脳の働きに帰着させて解明していこうという方向もとっています。
 ただ言えるのは脳の研究をどこまで追及しても、人間の心や精神の働きそのものを理解することは不可能であろう、ということです。 例えば人間には喜怒哀楽があり、その喜怒哀楽と脳の神経の働きの関連性は把握できるかも知れません。 ここで脳の神経の働きというのは客観的にに測定できる、電気伝導であったり、脳細胞からの物質の放出、吸収であったり、物理的な動きであったりします。しかしそれをいくら正確に解明してもそのデータから喜怒哀楽そのものの内容を導き出すことは出来ません。
それにもかかわらず、ある人々は「科学が進歩すれば一切の現象が物質的な現象として理解できるようになる」というような考え方が主張します。 そのように主張しない人も、どこかでそのようなものでないだろうか、という思いを持っています。
 このような考え方は人の注意を心とか精神という面より物質の方に惹きつけます。
 この考え方が直ちに「物質的な面での拡張を追求する」という近代文明の特徴につながる物ではないのですが、その特徴の背景的な思想になっていると考えます。

 

 
 


 
by masaaki.nagakura | 2012-02-10 13:17 | 想うこと
想うこと7 良き未来に向けて(27)提唱5 物質文明と精神文明の調和
 「近代文明は物質文明である」と言われることがあります。
 ところでいかなる文明も物質が必要ですが、その文明を支えているのは人間の精神と肉体によるのですから、単なる物質文明もまた単なる精神文明もあり得ないでしょう。
 ですから「近代文明は物質文明である」というのは「近代文明は物質的な拡張を追及してきた文明である」という意味使われるように思います。
 確かに近代文明は産業革命を一つの契機にしていて、多くの国家を科学技術の発展等による物質的な拡張を追求する方向に導いてきたことは否めないと思います。
 近代以前においても物質的な面での拡張を求める方向性は厳然としてあったでしょう。
 近代以前の産業は農業が中心で、9割以上の人が農業に従事していたといわれます。
 農業における拡張というのは、単位面積当たりの収穫量の増大かもしくは耕作地の拡張(開墾)によって行われます。 このような意味での拡張は絶え間なく行われて来たようですが、そこには人力による仕事量の限界性と耕作可能地の有限性という束縛条件が横たわっていて、その拡張速度は近代産業による物質的な面での拡張速度に比すれば、遅々たるものであった、といえるでしょう。
近代における産業革命は農業と工業において仕事量の限界性という束縛条件を消滅させないにしても、相当緩めました。特に工業は本来農業の持つ土地の限界性という束縛を持たないために高速度の拡張を遂げてきました。この工業の高速度拡張とそれによって齎される豊富な生活物資の享受は人類の大多数をして魅了させるものであったわけで、「近代文明は物質文明である」という状況を齎したのでしょう。
 このような産業革命の影響に加えて近代の人々を物質中心的な発想に向かわしめたのは近代思想の中に横たわるある要素である、と思われます。
 この要素とは次の3つです。
1.近代科学をその背景とする唯物論的な思想
2.ダーウインの提唱より始まる進化論的な思想
3.ルソーにより提唱された民約論的な思想

 この三つはいずれも近代社会の思想の中で中心的な位置を占めるものです。
 以下に何故これらが物質中心的な思想の背景にあるか、という話をします。

 
by masaaki.nagakura | 2012-02-06 13:06 | 想うこと
想うこと7 良き未来に向けて(26)提唱4 中央集権と地方分権の調和(つづき2)
 これからは地方分権に移行していくであろうし、また移行することが良いことであるという考えを示し、また地方分権に移行するプロセスについて語りました。
 ところで表題は「中央集権と地方分権の調和」です。
 私が地方分権への移行が望ましいと言っても、国家の権力をゼロにすれば良いということではなく、国家の権力と地方の権力がある調和をもった形にまで移行するのが望ましい、ということです。
 それでは国家と地方におけるどのような権力の分配が好ましいのでしょうか。
 この問題は現時点において明確が答えが出せるものではなく、今後の試行錯誤の上に適切な形を形成していくべきものでしょう。
 地方分権を論ずる場合にこの「国家と地方の権力の分配の在り方」という問題に加えて「この分権にあずかるべき地方自治体というのはどの範囲であるべきか」という問題、更に「地方自治体が多層構造を持つべきか、持つとすればどのような構造が」という問題が発生します。
 これらの点についても今後の試行錯誤がなされて適切な「地方自治体の範囲と構造」 が定まっていくと考えられます。
 ここでは「国家と地方の権力の分配の在り方」について私的で且つ自分自身にとっても暫定的な試論を述べます。
 先ず国家と地方における権力の分配の在り方です。
 私の考え方は次の二つのいずれかいに該当するものを国家権力の範囲とし、それ以外は地方に権力を委ねるべきである、というものです。
(1) 国家でなければ為しえないことに関する権力
(2) 国家でなすことが地方でなすより、より良い結果が期待できることに関する権力

 上記(1)に属することは①憲法の制定、改廃 ②国家間に関わる外交 ③軍事 ④国税 ⑤貨幣の発行 ⑥刑法の制定、改廃 等であり、
 上記(2)に属することは①技術的企画の制定 ②大規模投資の必要な研究・開発 ③交通規則の制定、改廃 ④流通品の安全にかかわる規制 ⑤公害防止法等環境保護上の規制等です。

 教育に関しては国家は小学校、中学校、高校、大学等の在学年数等の事項を決めるのみで殆どを地方の独自のやり方に任せる方が、地方の創造性が発揮され、よりよい形が期待できます。
 医療、福祉、土地利用、都市計画、自然保護政策等についても基本事項を除いて地方の裁量に任せるの良いと思います。過渡的にはそれらに関する現在の国の法律による規制をまったくゼロにするというのでなく、それに従うかあるいは別の規制を地方が作るかを地方自治体の選択に任せるという形で良いでしょう。

 特に税金については、国家は消費税、エネルギー消費に関わる税金、環境汚染防止に関わる税金等の徴収にとどめ、所得税、法人税、酒税等を全て地方自治体の自主的に制定する法に委ねるが、地方分権を実質的なものにしていくのに有意義になると想います。
 この地方自治体に向けられた所得税や法人税ははその地方自治体に住む住民やそこに根拠地を持つ企業のために使われるので税を出す方にも出す甲斐があります。
 そしてその税の使われ方はそこの住民の選出する代表により、決められるので自ずからその地方の居住環境やそれを支える自然環境もより良くする方向に使われると期待されます。
 
 地方自治体の税のかけ方によって、地方毎に人や企業の集まり方も変わってきて特色のある町が形成されるし、地方自治体間の自由競争のような状態が出てくろと想像されます。
 この地方自治体間の自由競争はお互いの良いところを模倣して成長しあう形になっていけば地方にどんどん活力が出て来て、住んでいて楽しい地方自治体が次々と形づくられると期待されます。

 いろいろな考え方の地方自治体が現れるでしょう。
 このことについて想像力を働かせ、その結果がどうなるかをシミュレーションするのは楽しいことのように思いますが、又の機会とします。


 
 
by masaaki.nagakura | 2012-02-05 18:29 | 想うこと