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想うこと4 経済とは何か(15)本来のグローバリズム
近代の経済はローカリズム(地域経済)らグローバリズム(国際経済)へ変遷してきたと言う話をしました。
グローバリズムと言うのは国家間の経済的な流通の壁(関税その他の規制)を取り除いてやがては世界中を一つの経済領域にしていこうとする「世界市場主義」といううような意味でつかわれることが多いようで、私もこれまでそのような意味で使っています。
よくよく思うにグローブというのは地球ですから、本来グローバリズムというのは地球主義という意味で、地球全体を一つの共同体と観る、という意味があると思います。
その意味で見た場合にはグローバリズムというのはかって言われていたコスモポリタニズムと共通した意味を持つかも知れません。
コスモポリタニズムというのは世界市民主義とも約されていますが万民を自らの同朋とみなす考え方ですから、万民同胞主義と言えるでしょう。
グローバリズムとコスモポリタニズムを地球主義と万民同胞主義と解釈するとそこには地球全体あるいは全人類をひとつの輪のなかに包んでいこう、とする博愛的な意味も出てきます。特に地球主義というのは人類だけでなく、地球上の一切の生命、無生命も含むものですから、万民同胞主義を超え、自然環境全体をも含む深い意味をもつものと捉えられます。
もし、グローバリズムがそのような意味での地球主義として使われ、そのような意味で世界中に広がれば、それは人類全体に実りのある未来、希望に満ちた未来を齎すのだと思います。
現実に進行しているグローバリズムは「世界市場主義」と言うグローバリズムです。
それは経済競争の場の地域的な場所から、全世界的な場所への拡張を意味するものであって、ますます熾烈な経済競争を招き、一部の勝者と多くの敗北者をつくっています。
世界市場は限りなく広く、勝者すら、常に自らがいつ敗残者になるかも知れぬという脅威に晒されていると言う、決して幸福とは言えない状況におります。更にそのような人を消耗させる競争の果てに待っているのは資源の枯渇と、地球温暖化による人類の破滅ということであっては、誰にとってもいいところはないのです。
私は経済競争が悪だと思っているわけではありません。ただ根底に本当の意味でグローバル(地球的)な観点を持たずに、目先の利益を追求するための競争に陥れば、それはやがて必ず地球全体を破滅させる結果しか齎さないだろうと思うのです。
従って、今後はグローバリズムを「世界市場主義」として推進するのではなく、本来の意味である「地球主義」として推進していくことを提唱したいと思います。

補遺:グローバリズムの歴史について
哲学者カントがコスモポリタニズム(万民同胞主義)という考え方を出したといわれます。
カントがそれを言い出した頃はまだ多くの国が封建的な社会状態にありました。
国家と言う意識は人々のうちにそれほど強固ではなくコスモポリタニズムと言う考え方もヨーロッパにおける多くの知識人に受け入れられたようです。
しかしその後のヨーロッパの大国は中央集権的な国家体制を築き、アジア、アフリカ諸国に対しては優勢な軍事力を背景に植民地獲得競争を展開しました。
その結果世界中のほとんどの地域がヨーロッパの列強の植民地に化しました。アジア、アフリカで植民地化を免れたのはアジアでは日本、タイ、ブータンなど、アフリカではエチオピア、リベリアのみです。
特にイギリスは七つの海を支配するといい、広大な植民地を有する大英帝国と築きました。
中国(清)もイギリス、ロシア、日本に植民地化されつつありましたが、孫文が辛亥革命を起こして、国の崩壊を食い止めようとしました。
孫文は民族、民権、民生という三民主義を唱えたのですが、その書の中で「イギリス人はコスモポリタニズムと唱え、それに賛同する中国人もいるが、いま中国がコスモポリタニズムを受け入れたら、その実態はイギリスの支配下におかれるという亡国である」と言うような考えを述べていたと思います。
思うにヨーロッパの列強がアジア、アフリカを植民地支配していた状況においては、イギリスなどの広大な植民地を築いた国の中にコスモポリタニズムという考え方が再び出てきたのでしょう。しかし、その背景には大国の身勝手な考えがあったと思います。
この点ではローマ帝国、古代中国等を築いた人たちにも同様な身勝手なコスモポリタニズムがあったように思います。最近ではグローバリズムを推進する米国人の中にそのようなコスモポリタニズムが見られる気がします。
このようなコスモポリタニズムの共通した特長というのは、自国の文化の絶対的な優位性を信じ、それを全世界に向かって広めていくことが、正義でもありまた、全世界の人々にとっての幸福でもあると信じることにあるように思うのです。
やがて2回の世界大戦を経た後、世界中のほとんどの国が独立し、国家としての主権をもっています。これほど地球上に独立国家が連立している時代は歴史上ないだろうと思います。
このような状況にあることは真の意味でのグローバリズム(地球主義)の可能な素地ができたと
観ることができます。
かってのローマ帝国、古代中国、大英帝国がそうであったように、国家間に支配、被支配の関係がある中でのグローバリズム(あるいはコスモポリタニズム)はその実態が文化の一方的な押し付けにならざるを得ないようです。
対等の立場に立てる独立国家が連立した状況でこそ、相互の合意によるグローバリズムが無理なく進展できると思います。
残念ながら、現在まで進行してきたグローバリズムは上記のように「世界市場主義」という形でのグローバリズムであり、それはいわゆる「開発国」から「開発途上国」への「文化の押し売り」という面があったと思います。
本当の意味でのグローバリズムはこれからの人類の課題です。
私達は今、本来のグローバリズム、地球主義というグローバリズムが始まる時代の夜明けに立っている、と考えたいものです。
by masaaki.nagakura | 2009-01-29 08:58 | 想うこと
想うこと4 経済とは何か(14)グローバリズムの功罪(続き)
これまでのグローバリズムが「エネルギー多消費型の産業構造の世界規模への拡大」を意味したが故に、それが世界中の人々の心中にエネルギー枯渇と地球の温暖化という危機感を強め、それが現在の世界同時不況という警告を発したと考えられます。
もし今後のグローバリズムが「持続可能な産業構の世界規模への拡大」と言う方向に向かうならば、それは世界中の人々の未来への希望を生み出し、世界同時好況につながると期待出来ます。
しかしここで「好況」というのは、これまでの大量生産、大量消費型の産業の伸張と言う形ではなく、GDPの伸びという形でもなく、世界中の多くの人々が幸福感を抱き、且つ未来への希望をもって生活し、勤労出来る状況という意味です。

米国の新大統領のオバマさんは米国が「環境分野におけるリーダーシップを握る」という決意を表明し、70兆円を超える資金の投入を提案しています。
多分この予算は通ると思いますが、それを起点に「持続可能な産業構造の拡大」という新たな形でのグローバリズムが始まれば、それは世界全体にとって望ましいことだと思います。

近代の経済の歴史を振り返ると、地産地消的な封建社会から、国家規模の市場経済へ、更にグローバリズムという形での全世界規模での市場経済に発展してきました。
言ってみれば、ローカリズムから次第にグローバリズムへと変遷してきたと言うことです。
この変遷というのは良いとか悪いとかいうより、人類が長い歴史の中で経なければならないひとつのプロセスであると思います。
ただし、この変遷の中で何が得られ、何が失われてきたかは良く考えてみる必要があると思います。得られたものは「世界全体での情報の共有化」であり、より具体的には「新たな技術、医療、衣食住のありかた等が相互に学び合える状況が生まれたということです。
一方、失われたあるいは失われつつあるものは地域に固有の文化、過去の地域社会の持っていた人と人との強い絆でありましょう。

グローバリズムという方向は今後も進展すると思いますが、同時にローカリズムの良さをも維持し、あるいは復活させることが望ましいです。
今後はグローバリズム化と共にそれとバランスする形でのローカリズム化が同時に進行することによって調和のとれた、住みよく、美しい社会が作られるのだと思うのです。
by masaaki.nagakura | 2009-01-28 22:35 | 想うこと
想うこと4 経済とは何か(13)グローバリズムの功罪
アダムスミスの「諸国民の富」(富国論)によれば、自由市場経済では「神の見えざる手」が働いて、価格や雇用の調整が自然になされる筈です。このような考えのもとでは国家の経済への干渉は小さな程良いことになります。また自由競争による発展のためには自由競争に参加するメンバーが多いほど良いことになります。その意味で現在急速に全世界的に進行しつつある開放経済とグローバリズムは好ましい状況のはずです。 しかし、今回の世界同時不況はそのような考え方に何か落とし穴があるということを暗示しました。
今回の不況はこれまでに例を見ない程世界的に同時進行しています。
これはグローバリズムの進行と明らかに関係しているようです。
しかしこれが、グローバリズムそのものの責任であるとは言えないでしょう。

前記のごとく今回の不況はエネルギー依存という近代の産業構造に対する人々の危惧ににあると思うのです。
現在のグローバリズムは、市場の開放であると同時に「エネルギー依存型の産業構造の世界的規模への拡大」でありました。
近代産業は化石エネルギーの動力への利用という産業革命から始まっていて、その意味で最初の段階からエネルギー依存型でありました。
その産業構造がかって先進国と呼ばれた諸国にのみで発展していた段階でも、エネルギー依存の問題は認識されていたものの、「まだ先のこと」と言う感覚で捉えられていたと思います。
グローバリズムとともにこのエネルギー依存への危険性が急速に現実の問題となり、さらに地球温暖化の問題が出てきたことが、多くの人々に近代の産業構造、より深くは現在の文明のあり方そのものへの危惧の念を抱かせ、それが世界同時不況に繋がったのだと思います。

世界全体がエネルギー依存の方向から抜け出し、持続可能な産業構造の方向に向かうことで、この不況からは脱却できると思います。グローバリズムはその場合には良い方向に作用するでしょう。即ちグローバリズムのもとに持続可能な産業構造の構築のための競争及び協同が全世界的な規模で展開されます。
その過程では持続可能な社会の実現のために役立つ全世界の人々の様々な知恵が世界全体に公開され、評価され、思う以上に速やかにより良い方向への産業構造と社会の変革がなされることが期待できます。
by masaaki.nagakura | 2009-01-27 13:02 | 想うこと
想うこと4 経済とは何か(12)産業構造改革のまとめ
現在の景気減速と求められる産業構造の改革についてこれまでの話をまとめます。
現在の景気減速は、産業構造の変革を求めるシグナルです。
即ち産業構造を持続可能な方向に変革していくことによってのみ景気の回復は図れます。
それ以外の試みは一時的に功を奏したとしても、根っこからの解決には結びつかないでしょう。
日本の方向については(1)環境中心主義、(2)地方分権、(3)エネルギー税 を提案します。
より具体的に言いますと、エネルギー税を財源として政府及び地方自治体により次の2つの方向での改革に取り組むのが良いと思います。
(1)持続可能な産業構造の構築:政府主導にて地球温暖化防止、省エネルギー、自然エネルギーへの転換の政策を進めます。
(2)美しく、住みよい郷土の創生:地方自治体主導にて自然河川工法、水の浄化、山林の生態系の豊かさの増進、電線、電話線の地中埋設化、緑化等による街路の美化、教育、医療環境の改革等に取り組みます。この変革は特に住民参加でアイデアを出しあいながら進めます。
by masaaki.nagakura | 2009-01-27 09:01 | 想うこと
想うこと3 経済とは何か(11)産業構造変革へのイメージ
日本の産業構造変革のために「環境中心主義、地方分権、エネルギー税」というの3つの原則を提言しました。
実際の変革への道筋はどのようであったら良いのでしょうか。
最も重要なのが「産業構造変革へ向けての意識」の熱意が日本国民の広範囲に盛り上がるということです。その熱意なしに真の変革は遂げられないでしょう。
歴史的な変革は必ず「変革へ向けての熱い願望」があって成し遂げられます。
そして熱い願望というのはリアルなイメージがあってこそ生まれると思います。

次は上記3つの原則私の未来に向けてのイメージです。内容は前回の話と重複しますが、イメージを更に明瞭にするために書き加えます。

1.環境中心主義
環境というと先ず地球温暖化の問題とか、地球規模の大きな問題がイメージがあると思います。それは非常に重要なことであることは間違いがないのですが、それだけでは人々の熱意を喚起するには十分ではないでしょう。
殆どの人々にとって関心を呼び起こす環境と言うのは自分の身の回りの環境です。
従って私は、環境問題への取り組みは中央政府の主導による「持続可能な産業構造の構築」という方向性と同時に地方ごとで「郷土を美しく、住みよく」という方向性もって進めるのが良いと思うのです。
自分の生活している周辺が美しく、住んでいて居心地が良いものであってこそ、郷土を愛せるし、それが人類や、地球への愛につながり、それを末永く存続させていこうという意欲にも繋がっていきます。
郷土を美しくするためには河川自然工法、電柱の地下埋設、里山の手入れ、街路の美化、芸術的な道作り、田畑の美化、建造物の調和化などのテーマがあります。
郷土を住みよくするためには水、食物、教育、医療、交通手段、文芸等の環境を整えていくというテーマがあります。
郷土が美しく、住みよくなることは「Quiarity Of Life」の向上にもなることで、それに向けての多くの人々の意欲を掻き立てるものともなるでしょう。

2.地方分権
「郷土を美しく、住みよく」という方向を目指して実践していくのはその郷土に住む人々です。
一切を地域に任せて、それぞれの地域のアイデアにより、進めるのが最大の成果を生み出していくでしょう。
もともと現在の日本の中央集権というのは明治維新りで生まれたものですが、当時は「文明開化」のための情報の所有が一部の先覚者に限られ、それを全国レベルで展開するためにも、中央集権が有効であったといえるでしょう。現在は教育の普及、マスコミ、インターネット等により、情報の共有化が進んでいます。
また様々な新たなアイデアは、過去の考え方に縛られる傾向のある中央政府よりはむしろ地方から生み出される可能性が高いのです。地方自治体の職員のみでなく、住民参加、地元企業参加でいろいろなアイデアを出しあって、進めていくのが、大きな成果を導くと考えられます。

3.エネルギー税
エネルギー税は太陽電池や風力等の自然エネルギーを除く全てのエネルギー消費に対して課税されるものです。そしてその税金は「持続可能な産業構造の構築」と「郷土を美しく、住みよく」するための資金として使います。結果として日本の産業構造が省エネルギー型で環境汚染を伴わない方向に変革され、かつ日本全体が美しく、住みよい国となることが狙いですが、同時に大きい雇用への道も開くものです。
このような税の設定については「国際競争力の低下をまねく」という反論が出されるでしょう。
しかし、「持続可能な産業構造の構築」は世界全体に対して求められている課題です。これを日本が先駆けて追求し、実現していくことは、長い目で見れば、むしろ日本の国際的な地位を高め、また国際競争力をも高めるものです。
また日本全体が美しく、住みよい場所となれば、それは日本人全体の勤労への活力も高め、それも結果的に日本の国際競争力を高めるでしょう。
以上は、「エネルギー税が日本の製品の国際競争力を低下させる」という意見への反論です。
しかし、本当には「持続可能な産業構造の構築」というのは全世界が協力して立ち向かうべき課題であり、「国際競争力云々」という場合ではないと思います。
その意味では、世界の各国が協調してエネルギー税を設け、共同して「持続可能な産業構造の構築」をしていくのが望まれる姿です。
by masaaki.nagakura | 2009-01-16 08:59 | 想うこと
想うこと3 経済とは何か(10)日本の産業構造変革への提言
ここでは日本の産業構造変革への向けての私の提言をしたいと思います。
私の提言の骨子は次の3点です。
(1)環境中心主義。
(2)地方分権で環境改革。
(4)エネルギー税で資金調達。

次にこの趣旨について説明します。
(1)環境中心主義
産業革命以来続いてきた産業と生活の変化、発展は終焉を迎えつつあります。
これまで人々の経済的価値の関心は貨幣と交換できる生活物資にが置かれ、その生活物資を効率よく供給するように産業構造を構築してきました。しかし、その結果エネルギー枯渇の危機、地球温暖化をはじめとする環境の危機に直面しています。
そもそも人間生活の幸は生活物資の存在のみによるものでなく、人間の生活を取り巻く環境飲み水や呼吸する大気そして居住する街の景観や住みよさ、自然環境の豊かさに著しく依存しています。
現在までの産業はそれらの環境に眼をつむり、生活物資の量産にいそしんできた。その結果生活物質の豊かさ、余剰が生まれる一方で環境が劣悪となり、それがひいては地域社会の崩壊、精神的荒廃、犯罪の増加すらも生み出しているのです。
この現象は日本のみならず、全世界的な規模で進行しているものであり、そこからの脱却と新たな方向性への出発が求められているでしょう。
すなわち生活物資の豊かさのみに眼を奪われていたところから、環境を含めた大きな視点に眼を広げて産業および生活を創造する、という方向性に変える、ということです。
このような考え方を環境中心主義と呼ぶことにします。
環境中心主義というのは近代社会が産業中心主義、即ち産業の発展に意識を集中させてきたことに対比させるためにいう言葉です。
環境中心主義と言うと「環境だけ良ければいいのか、生活はどうなのだ」という疑問が出されるかも知れません。しかし、この場合の環境と言う意味は人間をとりまく、自然環境のみならず衣食住、教育、医療も含む広い意味で捉えるものとします。
この経済変動の時節にあたり、日本は環境中心主義を宣言し、その方向へむけての最初の大きな一歩を踏み出すことが望まれます。
(2)地方分権で環境改革
環境問題というのは地球温暖化と言うような世界的な規模で発生している問題である、と同時に一方では地域ごとの問題でもあります。地域により自然環境もことなり、また地理的な状況、文化的な伝統なども異なっています。 世界的な規模での問題については国が主導するにしても、地域の環境問題は地域ごとに取り組むのが適切と考えられるのです。
地方自治体がそれぞれの地域の住民や企業などの考えを取り入れつつ、創意、工夫を凝らしてそれぞれの地域での環境改革に取り組むのが良い、ということです。
後述する資金の使用も含めて地方自治体に大幅な権限を持たせて、環境改革を目指した政策を計画、実行することにより、多様な形の新たなプロジェクトが創生され、地方の活性化、雇用の創生、産業構造の変革を導きえるでしょう。
この過程においては、多くの失敗も起こるでしょうが、地方自治体相互に良いところを取り入れあうことで次第に良い形が存続、発展し、やがて日本全体に活気がみなぎるようになると、期待出来ます。
現在の日本は企業の発展の一方で地域社会の結びつきの衰退が著しく、それが多くの人に孤独への不安を与え、社会全体の力を弱めてきています。
この環境改革における地方分権は、再び地域の絆を取り戻し、安心できる生活の場を作り出す機会にもなる、と期待されます。
(3)エネルギー税で資金調達
産業構造改革の資金源としてはエネルギー税の設立を提言します。
これは、電力、ガソリン、石油等の全てに末端のコストの何%かに税をかけるものです。
たとえば電力では日本は年間約1兆KWHの発電量ですが、1KWHあたり2円(約10%)の税としますと2兆円の税となります。電力というのは日本の総エネルギー使用量の40%です。
ガソリンや石油が出力あたりの単価が電力より安いことを考慮しても、全体で年間3兆円程度の税にはなりそうです。
この3兆円のうち、たとえば1兆円を国が省エネルギー技術開発や地球温暖化防止の資金とし、残りの2兆円を地方自治体の環境改革資金とすることが出来ます。
2兆円というのは国民一人あたりでは、約2万円です。たとえば私の住む埼玉県小川町の人口は約3万人であり、年間で、6億円の資金となります。
この資金は毎年継続されるものですので、これを担保に借入も可能になるので、少なくもその10倍の60億円程度は環境改革資金として1時に調達できるでしょう。
以上は話をわかりやすくするために具体的に例をあげてみただけで、実施にあたってはいろいろ考慮しなければならない問題はあるでしょう。
なお、エネルギー税については「国民にたいする新たな負担である」、「日本の製品のコストを上げて国際競争力を弱める」などの問題も指摘されると思います。
しかし、そのようなことを考慮しても、エネルギー税の設定は国民全体にとって有益と考えます。
しれは次の理由によります。
①現在の経済危機の根源に「エネルギー枯渇の危機」が横たわり、エネルギーの消費は減らしていく以外の選択の余地はなく、エネルギー税はその方向性を加速する方向に働く、という意義をもつ。
②本税の利用により、環境立国の方向が進展し、それが産業面においても日本の国際的な立場を強くする。それはエネルギーコストの増大による一時的な競争力の弱体化を補って余りある。
③エネルギー税が国民への負担であっても、その分環境改革が進めば、それは国民にとって恩恵であって、無意味の出費とはならない。
by masaaki.nagakura | 2009-01-12 12:43 | 想うこと
想うこと3 経済とは何か(9)産業構造の変革の考え方
現在の経済危機が産業構造の変革を求めている、ということを話しましたが、ではどのような変革が求められ、それをどのように達成したらよいのかを考えてみます。
このような問題を考えるとき、真っ先に「資金はどうするか」ということを論じる人もいると思います。
前節(8)貨幣なき社会への空想 で話したように、「実際の生産や生活を成り立たせているのは貨幣ではなく、人々の労働であり、それによって齎される物資やサービスの流れ」であるということによくよく注意する必要があると思います。貨幣というのはそのような「労働の配分と、物資とサービスの流れを潤滑にするための手段」である、ということです。
従って、まず貨幣、あるいはそれを流通させるための金融)というものを全く考慮せずに「いかなる労働の配分と、物資やサービスの流れ」が社会全体にとって好ましいのか、を塾考することが重要です。
しかる後それを実現するために貨幣、金融のあり方そして政策を考えるのが順序である、と思います。
産業構造の変革は「幸多く、持続可能な社会の実現」という方向に向かってなされることが求められています。
その社会がどのような社会であるか、は個人によりイメージが異なるでしょうが、先に話したキーワード「省エネルギー、省資源、街路の景観美化、予防医学、芸術、水の浄化、健康、無害な食品、自然保護、メンタルヘルス、教育、リサイクル、クオリティ・オブ・ライフ、防災、平和維持、脱化石燃料、自然河川工法、ビオトープ、安らぎ、癒し、アメニティ、自然エネルギー」等
については多くの人が共感を持てると思います。
であるとすれば、次はそれらをどのような順序で、どのような方法で実現するか、を塾考したいと思います。
by masaaki.nagakura | 2009-01-12 12:11 | 想うこと
想うこと3 経済とは何か(8)貨幣なき社会への空想
貨幣の役割に関して話をしました。
要約すると貨幣は第1義として「社会から恩恵を得られる権利を示す権利証」であり、更に貸借されることにより「物資と労力を集中させる」役割を担う、ということです。
現在の経済というのはこのような貨幣の役割を無視して、論ずることは出来ないでしょう。
しかし、このような貨幣へ注意を集中する結果、かえって経済の実際の姿が見失われる恐れがあると思います。
そこでこれは全くの仮想ですが、貨幣がなくても成り立つ経済がありえるか、と言う問題を考えて見ます。
実際、原始時代には貨幣のない時代があったので、貨幣がなくても経済が成り立つことがある、とは言えます。しかし現在のように複雑多岐にわたった経済社会は貨幣がなくては動きが取れないようにも見えます。しかし、敢えて空想の中で現在の社会から貨幣を取り除いて見るとします。
この空想の世界の中で、人々に今と全く同じような生活、仕事や買い物や飲食をしてもらいます。
ただ異なるのは貨幣のやり取りがないということです。
ですから買い物といっても、店に行って必要なものをとってくるだけです。
レストランに行って食べたいものを食べて、お金は払わないということです。
田畑で農作業をすることも、満員電車に揺られて通勤することも今と変わりません。企業が材料を集めて製品を作り、供給するのも今と全く変わりません。ただ幾ら製造しても企業が貨幣を支払ったり受け取ったりすることはありません。
空想の世界ではこのような経済社会はありえます。
すなわち、貨幣が全くなくても、同じように生産し、生活することは可能なのです。
敢えてこのような空想をしてみると、「貨幣が実際の生産や生活を支えているものではなく、実際の生産や生活を持続させているのは、人々の労働であり、物資の流れである」ということが明瞭に認識できます。
by masaaki.nagakura | 2009-01-12 11:43 | 想うこと
想うこと3 経済とは何か(7)貨幣の貸借の意味
貨幣は個人(又は法人)の間で貸借されるものです。

どのようにして貨幣が貸借されるものとなったのか、また話を原始時代に戻します。

ここは原始時代の村落で、既に貝の貨幣が流通しています。
毎日魚を取って生活している人がいます。
魚は自分でも食べますが、それを売って、木の実や果物や獣の肉などを買って食べます。
ところが、ある年、寒波がひどくて、川が凍りつき魚を取ることができません。
しばらくは蓄えた貝のお金で食べ物を買って食べていましたが、とうとうその貝も尽きてしまいました。隣人は獣をとる人でしたが、獣は良く取れたので貝のお金を沢山もっています。
そこで彼は、隣人から貝のお金を借りることにしました。
そして寒波が過ぎて魚がまた取れるようになったらその貝を返す約束をして、そのかわり隣人にある石を渡しました。その石には借りた貝の数だけの線が刻まれていました。これは今で言う借用証と同じ意味のものです。

この原始時代の話は貨幣がある人に欠乏し、ある人に余るという状況が出てきて、そこから貨幣の貸借が始まるという例です。

更に時代が進むと農耕が始まります。
ある人が農地を開発しようとします。
しかしそれには人手を集めなければならず、そのために支払う賃金が必要です。
そこで知り合いなどからお金を借ります。 その借金は農地を開発した後に上がるであろう穀物を売却したお金で返済します。

この場合は将来において益(穀物)を得るために貸借が生じるということです。
言い方を変えると投資のための資金を得るために貸借が生じるということです。

以上の2つの話は「欠乏を補うための貸借」と「「投資のための貸借」の例です。
近代における貨幣の貸借にもこの2種があるようです。
企業でいえば運転資金の借入は欠乏を補うためで、生産手段の購入のための資金(設備投資用資金)の借入は投資のための貸借です。

特に投資のための貸借はそれによって資金の集中が可能になるので、短期間に多くの物資の調達と大きな労力の投入を可能にします。
貨幣が「個人または法人が社会になした恩恵の証文であり、社会から恩恵を受けるための権利証である」という意味を持つということを話しました。
更に貨幣は貸借されることによって「物資と労力の集中」という新たな役割を担えるものとなるということです。
by masaaki.nagakura | 2009-01-07 09:00 | 想うこと
想うこと3 経済とは何か(6)貨幣の役割
地球家族という考え方を話しました。
しかし、もし人類全体が一家族であるとしたら、貨幣の役割というのは何でしょうか。

当然のことながら現在の経済を考える上で貨幣、あるいは通貨、更に金融というものを抜きに出来ません。
そこで再び原始時代にさかのぼって貨幣について考えてみます。
また話を原始時代の一家族の話からはじめます。
家族が狩猟のための弓を得、魚をとるための釣り針を得てそれらを使うのに巧みになったたことで、獣や魚の収穫は増えてきました。 弓で狩りをし、釣りで魚をとり、木にのぼり木の実をり、獣の皮を剥いで衣服をつくり、石を砕いて矢をつくり、山腹に穴を掘って住居を作り、収穫した獣や魚を火で煮て食べ、それぞれの仕事を共同でしたり、分担したりしながら生活をしています。
苦しいこと、楽しいこと、悲しいことなどいろいろありますが、幸福な一家です。
やがて子供達も大人になり、それぞれに家を構えて住むようになり、もと一家族だったのが、今は一つの村落に発展しました。
村落になっても狩りが得意な者、釣りが得意な者、矢や釣り針を作るのが得意な者などそれぞれ得意、不得意があり、それぞれ得意な仕事をして、その獲物や作ったものを物物交換しながら暮らしています。そのように分業することで、全体として大きな収穫を得ることが出来ます。
しかし、やがて困った問題が出てきました。というのは獣が沢山とれる時もあれば、魚が沢山とれる時もあります。また、矢や釣り針などは必要でないこともあり、交換といってもいつもお互いに納得のいく交換が出来るとは限りません。交換を巡るお互いの不満や喧嘩も起こってきます。そこで村落の皆はその辺には採れない貝を取り寄せ貨幣として、等しく分配し、物物交換にに過不足があるとした場合にはお互いに話し合って不足分をその貝で補うようにしました。

以上は空想的な話に過ぎないのでが、要するに貨幣というのはもともと物物交換の対等性を確保するために導入された補完的なものであり、それがやがて全ての物や労力のやり取りに使われるものに発展したであろうと言うことです。

実は物物貨幣が2人の間でなされる場合には貨幣という形を持つものである必要は必ずしもなかったでしょう。たとえば前に魚をこれだけもらったから、今度獲れた鹿の肉をこれだけ送ろうというようにお互いに相手から受けた恩恵を記憶していて、それをお返しすれば貨幣は必要ないでしょう。
しかし、複数の人たちが関係してくるとやはり貨幣のようなものが重要になります。

貨幣というものの意味は「社会に対して個人または法人が提供した物品もしくは労働の価値の証文(記録)」ということと思います。
この証文を得た人はその分だけ社会から物品もしくは労働を得ることが出来るということです。
従って貨幣は「社会から物品もしくは労力を提供を受ける権利を示す権利証」でもあります。

別の表現では貨幣と言うのは個人又は法人が社会に貸した恩恵の証文であり、社会はその証文を持っている個人に恩恵を返済する義務を負っているということです。

その証文は原始時代には貝とか、特別な石、それが金貨、銀貨等になり、やがて紙幣やコインになりました。

現在ではその証文は主に銀行のコンピュータの中に存在する預金データであって、紙幣、コイン等の具体的な物質的形態をもった貨幣はそれを補完するものです。今後カード、ケイタイ、掌紋等個人認証ができるものでの購入が更に発展すると、物質的な形態を持った貨幣はなくなるかも知れません。 強盗とかの犯罪を防ぐには物質的な形態を持った貨幣はなくした方が良いかも知れません。
by masaaki.nagakura | 2009-01-05 12:37 | 想うこと