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若いあなたに語る自然科学2 一枚の紙に雲をみる
一昨日私の住む埼玉県小川町の文化遺産である吉田家住宅という古い農家で「春芸展」という和紙工芸、焼き物、木工、衣装などの展示会があり、その中で和紙工芸家のリチャード・フレイビンが和紙に書いた次の詩を見て大変感銘を受けました。

題名:一枚の紙に雲を見る

もし、あなたが詩人であるならば、この一枚の紙の中に雲が浮かんでいることを、はっきり見るでしょう。
雲なしには、水がありません。
水なしには、樹が育ちません。
そして、樹々なしには紙ができません。
ですから、この紙の中に雲があります。
この1ページの存在は、雲の存在に依存しています。
紙と雲は、きわめて近いものです。
・・・・・・この小さな一枚の紙の存在が、宇宙全体の存在を表しています。
『ビーイング・ピース』
ティク・ナット・ハン
ベトナム生まれ。(1926年ー)僧侶
フランス在住


(この詩の文章は伊豆の温泉旅館「落合楼」を経営する村上昇男さんのブログから引用させていただきました。)
あなたがこのように自分の周りのものを見ることが出来れば、あなたは詩人であると共に自然科学者です。そして宗教者でもあるでしょう。
因みにこの詩の作者は平和運動を続けているベトナムの仏教の僧侶です。
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(上の写真は雨に濡れるブルーべりー:本文と直接には関係有りません)
詩、自然科学、宗教などあなたは別のものだと思いますか?
決してそうではないと思います。
このひとつの世界をどのように観て、どのように感じるかによってそれは詩になり、宗教にもなりそして自然科学にもなります。

この詩は「一枚の紙」が「宇宙全体」と繋がっていることを伝えております。
あなたの廻りを見回してみてください。あなたの身体、あなたの衣服、机、椅子そして外に出れば樹が石が、葉が花がそして良く見れば虫も飛んでいるかもしれません。これらのどれもが宇宙全体と繋がり、宇宙全体の存在を表しています。

このこと即ち「全ての存在が繋がりあい素晴らしい調和を醸し出していること」をあなたの深い魂の奥底で感じようとすることが自然科学を学ぶことだと思います。
by masaaki.nagakura | 2008-03-26 13:01 | 若いあなたに語る自然科学
若いあなたに語る自然科学1 プロローグ
私はエンジニアリングの世界に生きてきた人間ですが、元来自然科学の世界に尽きせぬ興味をもっております。年を経るに従いその興味は増してきています。私を惹きつけているのはおそらくこの大自然の神秘と言うことなのです。私の住む家は埼玉県小川町の官の倉山という山の麓です。
この時期の自然の移り変わりの姿は言い表せないほど美しいものです。このような自然の中にいるだけで私は幸せになります。
この素晴らしい自然、その神秘を訪ねるのが自然科学だと思います。
そこでこの素晴らしさの感覚を若い君にも共感してほしいのでこの話を始めます。
ここで”若いあなた”と言うのは”心が若いあなた”と言うことです。
もし自分が若くないと思ったら若い気持ちになって読んでみてください。
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by masaaki.nagakura | 2008-03-26 08:30 | 若いあなたに語る自然科学
想うこと2 心の座標系(17)人類の未来を語る
私はかって「人が未来をどの程度予測できるのか」と言うことに大変興味をもっていて、日本の第二次大戦後について第二次大戦前に書かれたものがあればそれを読むように注意していました。イギリスの哲学者バートランドラッセルが「みかど崇拝の熱に浮されている日本はやがて中国の利権をめぐって米国と戦争して破れ、その伝統ある文明は滅びるだろう」というようなことを書いていました。
私が思ったのは「これは確かに日本の将来を当時としてはかなり正確に予言したものである、しかしバートランドラッセルすら、日本が敗戦の後に経済大国になると言うことまでは全く予想できなかったであろう」と言うことです。
日本人は「日本は第二次大戦に勝利して米国を支配するだろう」というような現在聞けば荒唐無稽なような予想をした人は多くいたようですが、一方「日本は負ける」と予言した人も少なからずいたようです。しかし、負けることまでは予測してもその後どうなるかと言う予測は殆ど出来ていなかったと思います。

ただ石川啄木の次の詩(題名:新らしき都の基礎)は世界大戦の予測と敗戦、その後の建設までを予言しているようで大変興味深く思いました。

やがて世界の戦(いくさ)は来らん!
不死鳥(フエニツクス)の如き空中軍艦が空に群れて、
その下にあらゆる都府が毀(こぼ)たれん!
戦(いくさ)は永く続かん! 人々の半ばは骨となるならん!
然(しか)る後、あはれ、然る後、我等の
『新らしき都』はいづこに建つべきか?
滅びたる歴史の上にか? 思考と愛の上にか? 否、否。
土の上に。然り、土の上に、何の――夫婦と云ふ
定まりも区別もなき空気の中に
果て知れぬ蒼(あを)き、蒼き空の下(もと)に!

いずれにせよ一国の20年程度の未来の予測と言うのも難しいものだと思いました。
その意味では「人類の未来を語る」などと言うのは極めて無謀な話でしょう。
しかし、日本を含む世界の近代史をつらつら思うに次の事実があるのではないかと思えます。
すなわち「人々の内なる深い願望は時を経て実現する」と言うことです。
日本、ドイツ、イタリアなど第二次大戦により無残な敗北を喫した国々もその敗戦を経た後経済成長を遂げて豊かな生活を享受するに至りました。これらの国々の人々の戦争に賛成したそもそもの理由が「戦争に勝てば食うや食わずの苦しい生活から脱却して良い暮らしが出来る」という夢であったでしょう。戦争の実行の結果「戦争には負けたけれど苦しい生活から脱却して以前に比すれば良い暮らしが実現した」のです。
ここで上の原則を制約するもうひとつ原則があるように思います。それは「ただし人類全体にとって不幸を招くような願望は実現しない」と言う原則です。日本、ドイツ、イタリアが敗北したと言うのもその原則のためと考えられます。
もうひとつの原則があると思います。それは「驕れるものは久しからず」という原則です。
近代史において多くの国々の興亡がそれが事実であることを証明しております。
以上3つの原則を書き出すと次です。
(1)人々の内なる深い願望は時を経て実現する。
(2)ただし、人類全体にとって不幸を招くような願望は実現しない。
(3)驕れるものは久しからず。

上記の(3)は多分(2)と関連しているのですが、一応歴史を予測するために加えておきます。
どうしてこのような原則があると言えるのでしょうか。
私は人類の魂はひとつのものであると考えたほうが良いと思っています。否地球全体がひとつのものであると考えた方が一層良いと思います。それは個人というものも地球全体の生命及び大自然とのつながりの中でしか存在しないからです。
その地球というひとつの魂が全体として良い方向に向かおうとしています。
人類の歴史もその中で織り成されます。そうすると自然に上記の3つの原則が出てきます。

さて上記の原則から人類の未来を考えてみます。
上記の(1)の原則があるので「現在人々がどのような未来を望んでいるか」と考えてみるのが鍵となります。
現在グローバリズムの進行により世界中の工業化が進んでいます。拡大指向か循環指向かと言えば大勢は明らかに拡大指向にあります。これは工業化の進展により「より豊かな生活を享受いした」という願望に基づきます。
これは特に発展途上国の人々にとって相当深い願望であるので、進展していくことは間違いありません。しかし、その進行が一方でエネルギー源の枯渇と地球温暖化という矛盾を齎します。
そこで、(2)の原則が働き、それらの問題が人類全体にとって致命的になるまでは進まないことになります。(既に石油価格の高騰という問題が起こってますが、それは地球の魂が起こしているひとつの牽制でしょう。)
そのようになるために次の動きが進展していくでしょう。
(1)省エネルギーの徹底化:最小限のエネルギーで豊かな生活を享受する科学技術の進展
(2)価値観の転向:拡大指向より循環指向への転向
(3)生活スタイルの変更:上記(2)と関連し、消費を幸福と捉える考え方から消費を避けつつ幸k福感を得られる生活スタイルへの変更
(4)人口の減少:おそらく(望むらくは)緩やかな人口の減少


以上の変化が何をきっかけにどれほどの時間をかけて進行するかを予測するのは簡単ではないと思います。
しかし、人口の減少を除いてはそれほどの長時間は要しないと思います。次にそれらの変化について予測してみます。
(1)省エネルギーの徹底化
現在起こっている石油価格の高騰は省エネルギーを非常に経済価値の高いものとするので、省エネルギー技術には多大な投資が行われ、相当の成果を挙げ、次第に(1)を実現していくでしょう。この動きは既に始まっています。数十年で相当の成果が上がるでしょう。
(2)価値観の転向
拡大指向から循環指向に転換する過去の歴史を見るために日本における古代(平安時代まで)から中世への移行を考えて見ます。この移行は古代の耕作地開発が限界に達したことから始まりますが、当時拡大指向的な価値観は根強く残っていたので争いが頻発し、無秩序状態が齎されます。その騒乱と無秩序を解決出来る武士が貴族に代わって権力を持つようになり「循環指向的な価値観」に替わっていきます。
近代の工業化は古代の耕作地開発と同列におかれます。耕作地開発では土地が制約条件でしたが、近代工業化はエネルギーが重要なひとつの制約条件となります。世界的な工業化の進展とともにエネルギーの獲得を巡る騒乱は一時的には避けられないものでしょう。
その騒乱は拡大指向が続く限りますます激しくならざるを得ません。そのために戦争や紛争が起こるかもしれません。その不幸から脱却するには先ず循環指向の価値観を持たざるを得ないのです。
現在既工業化諸国では段々声高く「循環型社会」の実現が叫ばれてきていますが、まだそれほどの実質は伴っていません。それはまだ自体がそれほど深刻には実感されていないためと思います。しかし戦争や紛争を経てそのような価値観の変化が加速度的に社会全体に普及してと考えられます。
米国は拡大指向である近代工業化社会の申し子でいわば日本の古代の終焉に出現した平氏のようなものかもしれません。既に石油にからまると考えられる戦争も起こしています。
しかし、現在米国の経済的没落が取り沙汰されております。それを機縁に拡大指向より循環指向への価値観の転向が進むかもしれません。
日本は歴史の変動期には相当敏感に反応する国のように思います。
日本人の価値観の転向は一端始まると後は急速に進むようです。(鎌倉幕府、明治維新、第二次大戦後の変動)
それほど遠くない将来(10-20年程度の間)に循環指向に向かうのではないかと思います。
アジアでは価値観の転向は日本より始まり、中国、インドその他の国に波及するのではないでしょうか。
(3)生活スタイルの変更
循環指向への価値観の転向はすぐに実質的な生活スタイルの変更を導くものではないですが、時を経て次第に実質的な生活スタイルの変化を齎すでしょう。日本で100年程度かかるかも知れません。しかし人類の長い歴史から見れば100年というのは極めて短い期間です。

これまで「心の座標系」と言うテーマで大分話して来ました。
このテーマではもっといろいろ話したいことがあるように思っているのですが、本論をもって一応一段落と言うことにしたいと思います。

by masaaki.nagakura | 2008-03-20 20:23 | 想うこと
想うこと2 心の座標系(16)人類の歴史
人類は原始時代から古代、中世、近代を経て現代に至っています。
その間の歴史をたどると、拡大指向と循環指向の2つの価値座標を往復しているように思えます。「拡大指向」というのは「拡大していくことに価値あり」という価値観であり、「循環指向」というのは「繰り返していくことに価値あり」とする価値観で「持続指向」とも言えます。
最初に本論での話しを要約します。
(1)原始時代は循環指向から始まり道具の発明により拡大指向への転換がおこりますが、その拡大が限界に至り再び循環指向となります。
(2)古代は農耕の発明、発達により拡大指向となり、中央集権的な国家が作られ拡大していきます。
(3)中世は古代の拡大指向が農耕地開発の限界などにより、行き詰まりその状況の打開のために循環指向の封建主義的な国家が作られます。
(4)近代は産業革命を契機に拡大指向に転じ、中央集権的な近代国家が作られます。
(5)現代(第二次大戦後現在に至る)は地球の温暖化、オゾン層破壊、大気汚染、エネルギー資源の枯渇など近代の拡大志向の矛盾が露呈し、一部で循環指向への価値座標の転換が見られます。しかし、中国、インドなどの近代化に遅れて着手した大国の人々がむしろ拡大指向に向かっているため、人類全体としては拡大指向が強まっている時代とも考えれれます。

以下にやや詳しく説明いたします。
まず原始時代には自然の植物の採取、鳥獣魚介類の捕獲に食を頼っていました。当初は他の獣と同レベルに自然の生態系の中に組み込まれて生きていたので、拡大しようにも容易に出来る状態ではなかったので現在の生活をそのまま維持していこうとする循環指向でしかありえなかったでしょう。しかし石器などの道具の発明とともに人類は他の生物より圧倒的に優位な立場に立ち、人口を増加させ、その生存領域を全世界に広げます。この時代は拡大指向の時代と言えます。
しかし、いったんその拡大が限界に達すると相互の部族間のなわばり争い等が頻繁に起こるようになります。このような争いは相互に拡大指向の価値観が続く限り終わることがないので、相互に無益な消耗を避けるために拡大よりも繰り返し(循環)を尊ぶ循環指向の価値観が優勢となります。次に農耕が発明されると、単位面積当たりの食料の供給能力が狩猟、漁猟に比して飛躍的に増大するために再び人口の増大が始まり、山林原野に農耕地が広がっていき、再び拡大指向型の価値観となります。古代というのはこの価値観追求の過程で出現した時代と言えます。 新たな農地が盛んに開発され、それを統括する役目を担う国家も誕生します。日本では天皇制が誕生し、貴族達が盛んに荘園という呼び名の農地開発を行います。やがて比較的容易に肥沃な農地に開墾できる土地が少なくなると、農地を奪い合う土地争いが頻発するようになります。 国家間の戦争も多くなります。 しばしそのような時代が続いた後に中世となります。中世には古代の中央集権的な国家にかわり、封建的な(地方分権的な)国家が出現します。封建的な国家は古代国家の拡大指向的な価値観を排除し、循環指向的な価値観に基づいて造られたものといえます。 地方間及び地方内での争いを避ける役目を果たす武士(西欧では騎士)が権力を占めるようになります。
(ヨーロッパでは西ローマ帝国の滅亡(480年)が中世の始まりとされているようですが日本ではいつを中世の開始とするのかは諸説があるようです。拡大指向から循環指向への価値観の転換という意味では源頼朝が武家政治を開始する、すなわち鎌倉幕府の成立が、中世の始まりではないかと思います。)
さて、ヨーロッパにおいて中世の循環指向から拡大指向への転換は思想的にはルネッサンス(14-16世紀)に始まると思います。ルネッサンスの人文主義者は中世を暗黒時代として古代を理想化し、キリスト教を中心とする価値観に替わりいわゆる人間中心主義的な価値観を主張し始めました。これは素朴で10年1日のごとくに同じ生活を繰り返すのをよしとする中世の循環志向の価値観に替わり、人間生活の豊かさを求めることを推奨する拡大指向の価値観を主張したことでもあります。
しかし世界全体に拡大指向の価値観が広がるのは産業革命(イギリスでは1760年代から1830年代他の国はそれ以後)以降でないかと思います。
これは産業革命を契機に生産力が飛躍的に増大し、科学技術を駆使することにより人間の生活の飛躍的向上が可能であるという認識が一般に広がったことが原因です。
すなわち、ここにおいて「循環」を美徳とする価値観を持ち続ける必要がなく生活の向上などを目指すのをよしとする「拡大指向」の価値観(かってルネッサンスの時代において富裕なイタリア都市で始まった価値観)が一般大衆に広がったのです。
ヨーロッパではルネッサンスからフランス革命(1789年:イギリスで産業革命が進行中)までを近世(初期近代)、それ以降を近代という言い方もされているようですが、その意味では近世は拡大志向への揺籃期であり、近代は拡大指向の価値観の時代と言えるでしょう。
日本では江戸時代が近世、明治維新以降を近代としているようですが、拡大指向への転換が明確になされたのは明治維新であり、日本もヨーロッパと同様に近代が拡大指向の価値観の時代といえるでしょう。

さて現代(日本では第二次世界大戦後と言われる)はどうでしょうか。
日本の第二次世界大戦後の経済成長期は「科学技術の発展のもとに豊かな生活を作り出せる」と言う考えが多くの人に無邪気に信じられていて、いわば近代の拡大志向礼賛のような価値観が主流でした。しかし、先ず水俣病や四日市喘息に象徴される公害問題による工業化への懐疑が発生します。これは公害防止法の施工などによりかなり改善されるのですが、次に地球温暖化やオゾン層破壊など、一国ではどうにもならない人類全体での問題が発生してきました。最近は石油価格の高騰など以前から言われている「石油の枯渇」も現実の危機として感じられるほどになってきております。
このような中で「循環型社会」とか「持続可能な社会」と言った循環志向の価値観の重要性が盛んに強調されることが多くなってきております。
しかし、依然として私達の生活は石油を消費しつつ豊かな生活を享受しようとする拡大指向の価値観に基づいています。更に今までどちらかと言えば循環志向の強かった中国やインドの多くの人たちを始め、いわゆる開発途上国の人たちが拡大指向の価値観に転向していて、人類全体としては拡大指向の価値観がますます強力になってきている、と捉えられます。

人類の未来はどのようになるのでしょうか。次にそれを考えてみたいと思います。
by masaaki.nagakura | 2008-03-20 13:58 | 想うこと
想うこと2 心の座標系(15)近代日本の歴史
幕末から明治維新へ、そして太平洋戦争へ、戦後の復興、バブルの崩壊を経て現在に至る日本の歴史はペリーの来航に機縁とする強烈な劣等感からの立ち直りと優越感の発生など劣等感と優越感の交互に現れた時代と言う観点からも捉えられます。
先ず幕末には強烈な攘夷思想が勃興します。それは外国から侵略を受けるかも知れないという現実の危機感とともに「彼らに比して弱い、劣った文明かもしれない」という劣等感の複合する中で発生した思想でしょう。日本の優越性を主張する思想も現れ、世論を沸騰させます。例えば水戸藩の会沢正志斎による「新論」では「西洋は世界の中で足に相当するから、走り回るのが得意であり、最近日本の近海に出没している。しかし足の分際であって頭に相当するこの神国日本を侵そうとするのは無礼千万である」というような表現があったと思います。これは黒船の威力に脅威を感じ、同時に生じてきた強烈な劣等感の裏返しであり、そこからの(たとえ理不尽な理屈を立ててでも)立ち直りを目指したものとも考えられます。
明治維新により中央集権的な国家体制が出来ると、「富国、強兵策」が採られます。これは国家として「富国」と「強兵」という二つの価値座標が立てられたことになります。強兵の方向は日清戦争、日露戦争に突き進ませ、それらの勝利によりペリーの来航以来の劣等感を相当払拭するのですが、やがて太平洋戦争に突き進み、一敗地にまみれて、多くの国民が敗北感に打ちひしがれ、自国民を「三等国民」と自虐的に称するまでに至りました。
ここで「強兵」の夢は破れたわけですから残るは「富国」の夢でそれに米国の主導でなされた「民主化」が加わったので、戦後の日本の価値の座標軸は主に「富国」と「民主」であったかと思います。日本の経済成長はバブルの時期まで急速に進み、日本人は敗戦によって強烈に植えつけられた劣等感をかなり払拭し、一時は経済で日本に敵うものはないという驕りも生じたくらいです。その後バブルの崩壊はあったのですが、日本は「富国」の夢をある程度実現しえたと言えるでしょう。
現在はと言うと日本の国民全体を強力に惹きつけて行く目標が喪失されていると思います。
それは明治維新で立てた「富国」の夢はほぼ実現し、「強兵」の夢は頓挫したということで二つの夢(座標軸)の結果が出てしまったから、次なる大いなる目標を見出せない状態にあるということではないかと思うのです。
「強兵」の夢を復活させようという動きもないわけではないようですが、時代錯誤と言うべきでしょう。
日本人の潜在意識(特に価値観の座標系に関る潜在意識)には幕末から明治にかけて形成されたものを未だに根強く残していて、そこをなかなか乗り越えられない状況にあるように思われます。幕末から明治にかけて輩出した人物達はその激動の中にあって、非常に深く物事を考え、将来を見通していたと思います。彼等以上に深い思想を持たない限り、彼等を乗り越えることは困難であり、その限り、日本人の価値観はその時代(幕末から明治にかけての時代)の呪縛を脱し得ないのかも知れません。
注意すべきことは幕末から明治へかけての思想(価値観、国家観)は欧米の列強に対抗し、それに伍す、更に彼等を凌駕するという目標を非常に色濃く持つ思想だということです。これは裏に「彼らに侵略されはしないか」という恐れを伴うものであり、それ故に日本人の心の中に非常に深く刻み込まれているのでないかと思います。
しかし、現在は「侵略される可能性」は現実性に乏しいので、そのような潜在的な恐怖心を持ち続けること自体、現実から遊離しているのです。
私は日本人はもう「他国に比して強く、豊かになるためにどうしたらよいか」を考えるよりも「地球全体のより良い持続のためにどうしたらよいか」を考えるのが世界のためにもまた日本のためにも望ましい次元に到達していると考えます。
価値観の座標軸を「富国」の方向から「持続可能な社会と生態系の実現」の方向に明確に向けていくことが求められていることでないでしょうか。
あるいは若い世代の多くの人たちがそのことに気づき始め、そのような方向に向かいつつあるかも知れません。もし向かってない人達がおりましたら、是非このことをよく考えてみてください。
by masaaki.nagakura | 2008-03-18 13:05 | 想うこと
想うこと2 心の座標系(14)劣等感とか優越感とは何か
通常の成人は多少の差はあれ、劣等感とか優越感というものを抱いていると思います。
このような感覚は「心の座標系」の中では「感じる座標系」に属します。
このような感覚があまり強まるとそれが「落ち込み」や「傲慢さ」を作り出すので、場合によっては困ったことになります。
そこでこのような感覚がどのように生じるか、どうしたら解消できるかを考えてみたいと思います。
平家物語の中に劣等感に関連すると思われる2つの話があります。
ひとつは平家物語のはじめの話で平清盛の先祖(祖父?)が、貴族達の前で舞を舞ったときに、「いせへいじはすがめなり、いせへいじはすがめなり」と貴族達にはやされます。これは「伊勢瓶子は酢甕なり」と「伊勢平氏は眇めなり」を巧みにかけたものでした。
その清盛の先祖は斜視だったのです。舞い終わって外に出るとぶるぶると震えて、刀の柄に手をかけて「彼らを皆殺しにして、自分も死ぬと」と言うのですが、伴のものに諌められて思いとどまります。この悔しさを晴らすべく、努力を重ね後の平家の興隆を観ることになります。
清盛の先祖は斜視であることに強い劣等感を抱いていて、貴族達もそれをわかっていて敢えてそのようなはやし方をしたのでしょう。その頃平家は既に勃興しつつあり、それに対する貴族達のやっかみもあったようです。
さて「斜視」であることは本来恥ずべきことでもないはずですがそれが劣等感になることは「斜視であるから女性にもてない」とか何か当人にとって不利となることに結び付けられて考えられまた、それゆえに「無力化されている」と感覚されるところにあると考えられます。
清盛の先祖の貴族達への怒りはその無力感を感じさせられたことへの反発からきた怒りとも考えられます。
もうひとつの話は義経の話です。
壇ノ浦の戦いでしたか。義経が弓を海に落としてしまい、それを敵の攻撃を避けつつ必死に拾うのです。伴のものが「高が弓ひつのために大切な身を危険にさらすようなことは止めるように」というのですがそれに対して義経は「私の弓を敵が拾い、こんな弱い弓だと嘲笑されたくなかったのだ」と言います。
義経は身体も小柄でそのことには劣等感を抱いていたようです。
しかし、義経はその小柄であることをカバーするかのように非常に戦略に長けていたので、その小柄であることへの劣等感は相当克服されていたように思います。それでなければ伴のものにあっさりと弓を敢えて拾った真の理由を言わなかったでしょう。
以上は平家物語からとった二つの例ですが、一般に劣等感というのは自分に関する何らかの弱点(と本人が考えていること)が無力感に結び付けられている状態からおこる感覚と思います。この無力感は落ち込みや悲しみに繋がることもあれば、怒りや恥辱感に繋がることもあるようです。 
私は劣等感そのものがそんなに悪いものとは言えないと思います。
劣等感をばねに偉業を成し遂げた人たちの話はよく聴くところです。
ただ、劣等感が無力感と落ち込みを引き起こすにとどまると、無気力にもなったり、逆に世の中を恨んだり、むやみに人を怒ったりすることになって困ります。
「菊と刀」を書いたベネディクトが日本を恥の文化、西欧を罪の文化と言ったようですが、日本の場合、劣等感が恥の感覚と強く結びつく傾向があるかもしれません。 「恥じる」ことはその状態を克服しようとすることに繋がります。恥というのは日本の文化が生み出した、ひとつの知恵かも知れません。
以上劣等感について多少考えてきましたが、以上の考えから次のように考えられます。
1.劣等感は「何らかの点で自らが劣っている」という認識(観)が無力感、去勢感という感覚(感)に連動することにより起こる感覚である。
2.劣等感のうちに含まれる無力感、去勢感は更に反発感、恥ずかしさ、怒り、恨み、悔しさ、等に更に落ち込みや虚無感、罪悪感等の感覚に連動することもある。
3.劣等感は社会が自らの方向性を規制するために作られた感覚とも考えられる。すなわち社会は教育や組織運営のなかで、推奨する方向を打ち出す。それはまたそれを達成しえないものに劣等感を与える機会となる。
4.劣等感は良く作用することにより、向上心にもなり社会を活性化する源の感覚である。

次に優越感というのは上記の劣等感を裏返したもののようです。
1.優越感は何らかの点で自分が勝っている言う認識が有力感、高揚感に連動することにより起こる感覚である。
2.優越感のうちに含まれる有力感、高揚感は更に誇らしさ、示威欲、傲慢、軽蔑、侮り等の感覚に連動することもある。
3.優越感は劣等感と同様に社会が自らの方向性を規制するために作られた感覚とも考えられる。すなわち社会は教育や組織運営を通じて推奨する方向を示し、その方向に合致した成果をあげるものを優遇する、表彰などにより名誉を与える等により、優越感の感覚を助長する。
4.優越感は良く作用することにより、向上心を刺激し、社会を活性化する。

以上を考えてきて私が、思ったのは「劣等感も優越感も社会的に非常に重要な意味のある感覚であり、それ故この感覚が社会からなくなることはないだろう」と言うことです。
実際現在の社会というのは競争原理を経済に導入し、むしろ劣等感、優越感をあおりたてている傾向があります。
ただ、劣等感であまりに落ち込んだり、優越感で他人を軽蔑するようになったりするのは、このように社会が作り出している感覚に盲目的に振り回されているということですから脱却したいものです。
劣等感を持ったとしても、優越感を持ったとしても、それを向上心に変えていけばそのような感覚から脱却して、より高い心の次元に到達できるのではないかと思います。
by masaaki.nagakura | 2008-03-07 13:01 | 想うこと
想うこと2 心の座標系(13) 生命における心の座標系
これまで「心の座標系」ということで人間を中心に話をしてきました。
ところでこの考え方は生命全般に通じるものがあります。
人間は万物の霊長と言われています(自称しています)が、人間以外の生命においてもその心には共通するものがあります。
人間は哺乳類ですが、哺乳類は胎生である、子育てをする、学習をするということで共通点があります。哺乳類に属する動物は人間に限らず「望、観、感、想、選、行、省、記」という各座標系を巡る形で行動しています。勿論その内容は動物の種類により相当に異なったものですが、一般には次のように言えるでしょう。
(1)主に本能的欲求に基づく何かをんでいます。
(2)外界をながら生きています。
(3)外界の危険や誘引をじています。
(4)これから起こることをいます(予想します)。
(5)行動をびます。
(6)います。
(7)結果をみます(反省します)。
(8)起こったことを心にします(記憶します)。

ここで哺乳類が「予想する」、「反省する」あるいは「記憶する」とかに疑問を持つかも知れません。
しかし、もともと哺乳類が学習をするということはこのような能力があるからと考えられるのです。哺乳類の種によりその予想、反省、記憶等の仕方は異なるでしょう。
私は犬と付き合っているので犬の話をします。
山に散歩するときには綱を放して散歩しますが、家に戻ったときに逃げ回って繋がれようとしない時があります。綱を隠して、餌をみせても逃げ回るのです。
もし単純に餌への誘引から行動するならば、すぐに寄ってきても良いはずですが、相しないのは彼女が明らかに繋がれることを予想しているからです。そしてそのような予想が出来るのは過去に「餌を食べに近づいたら捕まってしまった」という記憶を持ち、そして「うっかり近づいてはいけない」と反省した結果と考えられます。

以上哺乳類について話しましたが、鳥類、爬虫類、魚類等も学習能力を持つという点で哺乳類と異ならず、「望、観、感、想、選、行、省、記」という各座標系を巡る形で行動していると捉えることが出来ます。

では昆虫はどうでしょうか?
昆虫は殆ど本能により生きているので学習能力はないと考えられているようですが、例えばあげは蝶など、一定のルートを回遊します。ありは自分の巣を良く覚えていて、そこまで餌を引っ張っていきます。これを学習といえるかどうかはわかりませんが彼らには少なくとも記憶の力があります。「想う」とか「省みる」とか言う力は非常に弱いのかも知れません。「選ぶ」という行為は殆ど本能によってですが、彼らは絶えず行っています。
そこで彼らの「心の座標系」は「望、観、感、選、行、記」の五つで表すのが適当かも知れません。

では微生物はどうでしょうか。彼らに記憶の力があるでしょうか。あったとしても微弱かも知れません。 そこで彼らの「心の座標系」は「望、観、感、選、行」で表すのが適当かも知れません。

植物はどうでしょうか。植物には心がないと考える人もいると思います。
私は植物にも心はあると思っています。
私はこの頃は毎日のように山林の中に道造りをしています。
低木を倒し、しの竹や幼木を刈り、それらを補強材として道を作っていくのです。
堀進む地面の下にはそれらの木々や竹の根がもぐりこんでいます。
特に今の時期は地面の中のいたるところにどんぐりの芽が芽吹いています。
木々の枝を折る度に彼のしなやかさを感じ、彼らの根を断つ度に彼らの逞しさをひしひしと感じます。 
そこには彼らの生へ向けての真っ直ぐな情熱としたたかな戦略が潜んでいるようです。
植物の心の座標系を敢えて表すとしますと「望、感、行」でしょうか。
勿論彼らは「観」の能力を持っていますがそれは「感」と未分化のもののように見えます。すなわち感じることが観ることなので「感」で表します。「選ぶ」というのも例えばどちらの方向へ枝を伸ばすこととか絶えず行っているのですがそれは「行う」ことに直結していて、行うこと(例えばある方向に枝を伸ばす)が選ぶ事ですのでこれは「行う」で表します。
by masaaki.nagakura | 2008-03-04 13:00 | 想うこと
想うこと2 心の座標系(12)座標系と言う表現をする意味
これまで人の心の有り方を「座標系」という観かたから語ってきました。
ここで、「何も座標系という言い方をしなくても心の有り方の表現は出来るのでないか、座標系という言い方をすることでかえって混乱するのでないか」という意見もあると想います。
確かにその通りです。 実際に目に見えるような形で心の中に座標系があるわけでなく、座標系という言い方は象徴的な意味で用いているだけです。
しかし敢えて座標系という表現をするのは次の意味があると思います。
(1)心の働き方の背景を表現出来る。
 説明:例えば「人は観る」というのと「人は観る座標系によって観る」というのは後者が、「人が観るという行為の中に心の中に観る座標系(観点)を作って観ているのだ」という意味を含んでいるという意味で心の働き方の背景にあるものを表現できます。
(2)心の種々の働きの相互関連を立体的、視覚的に捉えるのに役立つ。
 説明:例えば「選ぶ」と言う働きは「観て、感じて、価値観に照らして、選んで、行う」という一連の心の働きの連鎖の中で行われています。そのように心の働きの関連性を立体的、視覚的に捉えるのに役立ちます。
(3)人の心の働きの解明に役立つ。
 説明:上記(1)(2)のことから「心の座標系」という見方を通じて人の心の問題を解明することに役立てられます。
例えば心の問題として次があります。
① 心はどのように発達するか
② 心理的葛藤はどのように発生するか
③ 人と人の対立はどのようにして起こるのか
④ 戦争はどのようにして引き起こされるのか
⑤ 精神的障害はどのように起こるのか
 「心の座標系」という見方を通じてこれらが解きほぐされ、また解決のための道筋が見いだせれる可能性が齎されると考えています。
by masaaki.nagakura | 2008-03-04 08:59 | 想うこと
想うこと2 心の座標系(11) 価値の座標系
心の座標系の全体像について話をしてきて、どうしても欠けているものがあるような気がしていたのですが、それは[価値の座標系」というものかと想います。いわゆる価値観と呼ばれているものです。 価値の座標系はこれまで話してきた8つの座標系「望、観、感、想、選、行、省、記」の全てに深く関り、それらが適切な方向に向かうように統合しているものでないかと想います。
by masaaki.nagakura | 2008-03-04 08:33 | 想うこと
想うこと2 心の座標系(10)座標系の全体像
以上で挙げてきた「心の座標系」に更に「省みる座標系」を加えます。これは人が行った結果を観て反省することを表すものとします。
すると全部で次の8つの座標系があることになります。
(1)望む座標系
(2)観る座標系
(3)感じる座標系
(4)想う座標系
(5)選ぶ座標系
(6)行う座標系
(7)省みる座標系
(8)記する座標系

これらの(1)から(7)の順序は大体の働き方の順序に従ったものです。
人は心の中に望みを抱いています。
そして世界を観て、喜怒哀楽を感じます。
世界がどのようにあるのか、どのようにすれば良いかを想いつつ自らの行動を選び、実際に行い、そして結果を省みます。

実際に人の心はこの順序に従うとは限らず、相互の座標系を行きかいながら働くと考えたほうが良いと想います。例えば「選ぶ、行う、省みる、選ぶ、行う、省みる・・・」と言うように続く場合もあります。

いずれにせよ人間の心というのはこれらの座標系を様々な形で巡り歩いているものとして捉えられます。これらの座標系のうちの複数が同時的に有る場合もあり、どれかが特に強調されて現れることもあります。
by masaaki.nagakura | 2008-03-03 08:47 | 想うこと