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小川町の人と自然 その1里山クラブ「YouYou」
 私の住んでる埼玉県比企郡小川町はとても自然が豊かで住んでいる人たちも多彩且つ多才です。これから時々その自然や人たちを紹介していきたいと思います。
 今回は私も会員になっている里山クラブ「YouYou」の紹介です。
 昨日「YouYou」の総会が小川町飯田の「里山体験広場」で開かれました。
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 この広場は「YouYou」会長の佐藤章氏の所有する田んぼの跡地に会員達が作ったもので炭焼き小屋やトンボの池などあり、そこで集会をしたり、炭焼きをしたり、きのこ作りをしたりする場所です。
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 次の人物が佐藤章会長で、今年度の方針を説明してます。 
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 「YouYou」はこの他に小川町より町有林を借りており、雑木林に生きる生命との共生を目指した手入れや植林などしてます。
 昨日の総会には30人近くあつまり、今年度計画の説明などの後に音楽会と山菜のテンプラの試食会など、木漏れ日の下で楽しいときを過ごしました。
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 音楽会は先ずリチャード・フレイビンさんのマンドリンからです。
 彼はボストン生まれのアメリカ人で、20年以上前から小川町で和紙と版画に取り組んでいるアーチストです。「YouYou」は彼の作品の素材である和紙原料のコウゾを彼と一緒に育ててます。
 ところで、今年1月に彼の住んでいた慈恩寺が彼の留守中に火災に会い、寺が全焼しただけでなく、彼が営々として創造し、残して来た和紙作品、版画などのほとんどを焼失しました。その彼の悲しみは想像を絶するものと思いました。その彼が久しぶりのこうして元気な姿を見せてくれたことは本当に嬉しいことです。
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 次は名古屋さんの尺八です。曲名は忘れましたが随分情熱的な曲で尺八のイメージが大分変わりました。 
  
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 次は猪木母子のハーブの演奏です。雅やかなハーブの音色の「さくらさくら」は、天上にいる気分にさせられます。
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 その後は山菜のテンプラと持ち寄ったご馳走をつまみに野外パーティです。
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 山菜のテンプラは次の写真の佐藤治夫さんの指導によるものです。ご関心のある方のためにこの日利用した山菜の種類をこのブログの最後に写真入りで紹介しておきます。

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宴が進むうちお酒も回り、話も弾みます。
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笑顔も最高です。
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 子供達の木登りごっこが始まりました。


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 木の途中までは何とか行けてもその上は登れません。
 大人達がはやし立てると、では登ってみせろと子供達から逆挑戦されました。
 私が先に登りましたが、足が滑って、途中までも登れない。
 数人の大人達がチャレンジしましたが誰も駄目です。
 これでは子供達にバカにされっぱなしです。
 皆に押されて輪湖さんが挑戦。ブル下がりながら登る戦法で見事登り詰めました。
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 次は小川町育ちの高校教師の馬場さんです。正攻法でたちまた登りきりました。
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 これで大人の面目は十分に保てました。
 それにしても子供の頃から田舎で鍛えて来た人達のパワーはすごいものと改めて思います。
 ちなみに輪湖さんは六十数歳、新潟育ちです。木登りだけでなく何をやってもすごいパワーを発揮するこの里山クラブの大黒柱のような人です。 

 木登りへの熱気も冷めて、皆三々五々に家路に着きます。
 例によっての居残り組みが酒の尽きるまでと歓談を続けます。
 次の写真の一番右が筆者です。
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 私は久々に会った絵本作家の菊池日出男さん(下の写真右)と話が弾み、暗くなるまで居座ってしまいました。今日はかなりだるい気分でこのブログを書いてます。ごめんなさい。
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 以上で「YouYou」の紹介を終わります。
 なおこの会にご関心を持たれた方がおりましたら入会自由ですのでご連絡下さい。  
 連絡先は馬場さん(メール:babafarm@yahoo.co.jp)までお願いします。

ご参考:今回試食した山菜(どれも美味しかったです)
  左はアケビの新芽です。今の季節には雑木林のあちこちに出てます。勿論ご存知のようにアケビは果物として珍重されるものですが、そのツルでは籠が作れます。芽まで食べれるとはすごい植物です。
  右はアザミ、棘だらけですが揚げてしまえば棘まで柔らかくなります。本当です。

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  次の左はイタドリで右はホウノキの若葉です。イタドリはスカンポとも言い、子供の頃は皮をむいて食べた思い出もあります。ホウノキの葉はホウバといいます。私の学生時代の夏休みに高山の近くの飛騨一ノ宮というところの大鐘時という寺に厄介になってたことがありましたがホウバ味噌というのを出されそれをつまみに和尚と酒を飲みましたが、若葉も食べれるとは知りませんでした。
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 次はクローバ(学名シロツメクサ)の花と葉です。私が子供の頃沼津では白蓮華と言い、よくその花から首飾りなど作りました。 花も葉も食べれるとは感激。四葉のクローバを食べて幸せになれるのならもっと素敵ですが。

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 左はニラ、右はタンポポです。ニラは畑でも育てられてますが、この辺ではよく道端にも生えてます。根のところのコブ(球根?)が珍味です。


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 左がミツバ右がモチグサです。


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 次はヤマウドです。これの茎は皮を剥いて茹でて塩や味噌をつけて食べるのが最高ですが、テンプラにすれば葉っぱもいけるようです。
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 山菜の紹介は以上です。
 
by masaaki.nagakura | 2005-04-30 13:08 | 小川町の人と自然
エコデザイン㈱の紹介 その1 はじめの頃のお話
 エコデザイン株式会社は平成12年(2000年)4月に「循環型産業構造の構築への貢献」を理念として掲げて発足しました。この発足への経緯は自己紹介のつづき その5に若干述べましたのでそれもご参照下さい。
 発足した年は主に私と秋山取締役それから長倉正弥(私の長男)の3名にて業務を行いました。
 現在の業務はほぼオゾン関係に特化していますが、当初は「循環型」に結びつく技術開発なら何でも取り組もうという考えでした。
 最初に取り組んだのは超臨界水でした。
 超臨界水というのは、450℃、30Mpaといった高温、高圧の水ですが、その中で有機物を酸化するとほとんどの有機物は無害化されます。たとえば塩ビのようなものでも水と炭酸ガスと塩酸になり、ダイオキシンの発生はありません。しかも、その酸化の過程で発電も可能です。そのため究極の廃棄物処理法と考えられます。
 この開発のきっかけとなったのは秋山取締役と親密な交流があった日本原子力研究所の河村氏(当時大洗研究所核融合ブランケット開発室長)の依頼です。
核融合による発電設備で水を超臨界水に近い状態で利用するという計画があり、超臨界水中での材料の耐久試験をする必要があるということでした。
 当社はその試験装置を受注(元受:産業科学株式会社)し、製作に取り組みました。
超臨界水というのはそれまでほとんど知らず、暗中模索の状態から出発しましたが、実質半年近くの期間をかけ、2001年2月には何とか組立を完了しました。
 ところで装置を検収してもらうには工場立会検査と現地検査(納品後の検査)にパスする必要があります。当時、試験や組立は5坪程度の小屋(解体した農家の廃材等で作った木造小屋)で行っていました。その小屋で工場立会い検査というのはちょっとまずいのではないか、ということで苦肉の策というのか工場立会い検査は秋山取締役の経営するペンションモルダウ(伊豆の河津町に現在も営業)で行いました。
 450℃,30Mpaという高温、高圧は装置にとってかなり厳しい条件ですが、その装置への重圧は直接こちらへの重圧になって襲ってきます。何回も冷や汗をかく場面に遭遇しましたが、結果的には仕様を満足することが証明され本当にほっとしました。
by masaaki.nagakura | 2005-04-28 07:39 | エコデザイン㈱の紹介
我が家の動物達 その1 紹介
 これからエコデザイン株式会社の紹介に移ろうと思ってたのですが、あまり硬い話ばかりでは肩が凝りそうなので、我が家の動物達についての話を交えようかと思います。
 動物という意味では正確には人間や蚊やゴキブリ、ねずみのチュー吉まで入るのでしょうが、当面それらは含みません。
 わが家にはグリゼルダという名のメス犬、トムという名のオス猫、ノラという名のメス猫それからチャボのオンドリとメンドリがいます。
 先ずグリゼルダです。この名は童話の中の女の子の名です。
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 グリゼルダは3年ほど前、小川町で有機農業を営んでる岩崎さんの家に迷いこんだのをもらったのです。かわいがられて育ったのでしょう、人怖じしない得な性格ですが、雷と花火が大の苦手で、必死に家の中に入りたがり、そんなこんなで今は家の中で飼ってます。
 私の毎朝の散歩友達です。
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 夜は丸いベットに丸まって眠ります。
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 次はトムです。
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 トムは何年か前、子猫の時に捨てられ、やせ細って雨に濡れてたのを子供が拾って来たのですが今はりっぱなオス猫です。ここ何週間か家に戻ってこず、冒険の旅に出てたのか、あるいは次に登場するノラに追い出されていたのか? 傷だらけになっていたので多分冒険の旅だったのでしょう。
 次はノラです。
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 ノラは1ヶ月ほど前小川町飯田集落センター(私の住んでる地域の自治会館)の近くをさまよってたのを家人の誰かが連れてきて、飼い主が見つかるまで置いてやろうと、ポスターなどはって飼い主を見つけようとしたのですが、飼い主が現れずそのまま居ついてしまったのです。
 最初のイメージからノラクロと呼んでいたのがいつの間にかノラという名になってしまいました。 こんな格好をしているのは不妊手術をしたからです。つまり獣医さんが、縫い合わせた傷口をなめないようにということで、じょうごのようなものをはめてしまったからです。家人に「これは不自然でかわいそうだからいい加減でとってやれば」と言ったのですが「これがノラのためだし、もし不自然と言うなら不妊手術こそ不自然」と反論され、黙ってしまいました。でも水を飲むのにも苦労してるようだし、やはり少しやりすぎではないでしょうか?
 次はチャボの雄鶏と雌鶏です。彼らは1ヶ月ほど前、滑川村に住む水田作り仲間の松木さんから貰い受けたのです。 雌鶏は目下抱卵中です。
 これら我が家の動物達についてはまた折を見ながらお話をしたいと思います。

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(その2 チャボのことに続きます)
 
by masaaki.nagakura | 2005-04-25 21:20 | 我が家の動物達
自己紹介のつづき その7
(はじめまして からのシリーズです)
 自己紹介も大分長くなりました。最初からここまでつづけて読んで下さった方がございましたらそのご辛抱に大変感謝いたします。と言いつつ恐縮ですが、もう一言私の好きな歴史上の人物や作家について話をさせて下さい。
 古代の人物ではソクラテス、仏陀、孔子、老子、近代では二宮尊徳、勝海舟、大隈重信、山岡鉄舟、マハトマ・ガンジー、それからご存知の方は少ないと思いますがインドのラーマクリシュナという人達に惹かれます。これらの人達は「天の時」というのか[永遠のとき」というのか時空を越えた悠久な時を共有し、現在もその時のなかに生き続けているように思え、自分もいつかその同じ時の中に入りたいものだと夢想しています。
 近代の作家では宮沢賢治、ドストエフスキー、魯迅が好きです。それぞれの作風は異なりますが、彼らの作品の底流には人類への深い愛と悲しみが込められています。自分もそのような深い愛と悲しみをもてたら、と思います。
 現実の私は何よりもお酒を愛する呑み助です。リーダーシップの無さを嘆き、お金がたまらないのを嘆く俗物です。
 もし私に何か取り得があるとするとそれは「なかなかあきらめない」ということかも知れません。私は決して意思の強い人間ではありません。しかし、目標に向かって行き、戻りしつつ、時には迷走しながら、やがてまたそれに向かっていく芯の強さは持っていると思っています。(あるいは少なくとも持っていたいと思っています)
 私の最大の目標は自らの死に際して「自らの生き方を心底から肯定する」ことです。死に際して「お前はよくやった」とひいき目や偽りのない心で自らに言えることです。
 良寛の辞世の句に「うらを見せ おもてを見せて 散るもみじ」というのがありますが、ここには自己を含む世界の一切を肯定し切った姿があると思います。
 そこまでいければ、更にすばらしいと思います。
 そのような心境に到達することを目標に決してあきらめずにチャレンジを続けて行きたいと思っております。
 以上で私の自己紹介を終わります。
by masaaki.nagakura | 2005-04-22 07:38 | 自己紹介
自己紹介のつづき その6
 (はじめまして からのシリーズです)

 ここまで私の生まれてからエコデザイン株式会社を設立するまでの経歴のようなものを話してきました。
 会社設立以降のことについては次に予定の「エコデザイン株式会社の紹介」にて話すこととし、ここでは私の日常や趣味などについて紹介します。
 私は埼玉県の小川町というところに住んでいます。凡そ埼玉県の地形は関東平野から秩父山系にかけて平野から丘陵地帯、それから山岳地帯と変化していますが、小川町というのは丁度丘陵地帯から山岳地帯への変化する中間に位置し、自然の風光に恵まれてます。山は笠山、金勝山、仙元山、官の倉山など川は槻川などいずれもハイキングや散歩コースになっています。
 我が家は官の倉山の麓にあり、私の一日は大概、グリゼルダという名の愛犬と山道を散歩することから始まります。
 下の写真は本日散歩途中の山道から笠山の方向を撮ったものです。
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今の季節は山桜も点在し、みずみずしい緑があふれ、元気を
与えてくれます。
 小川町は有機農業の盛んなところで、私の連れ合いも
熱心で、私もよく手伝わされてます。
 下の写真は山桜の前のエンドウ豆の畑です。
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(自己紹介のつづき その7へ)




 
by masaaki.nagakura | 2005-04-21 14:51 | 自己紹介
自己紹介のつづき その5
 (はじめまして からのシリーズです)
 平成11年(1999年)9月、私は55歳にて自ら事業を興すために、三菱重工業(三菱原子力工業は1995年に三菱重工業に吸収合併しました)を退職しました。
 「自ら事業を興す」というのは既に私が40歳頃から心に決めていたことであり、退職はそれを実行に移すための第1プロセスに過ぎなかったのですが、親族、同僚からは危うい行動に映ったようで、大分心配されました。しかし、今はなき父(長倉喜一)はむしろ激励してくれました。父は祖父より「牛後となるより鶏頭となれ」とよく言われていたと言い、また私にも同じ言葉を言っていたので、反対する理屈もなかったのでしょう。
 半年の準備の後、平成12年(2000年)4月にエコデザイン株式会社を発足させました。取締役には元同僚の秋山博明氏(伊豆の河津町にてペンションモルダウを経営)、実弟の長倉正受氏(株式会社東洋工機代表取締役)、監査役に義弟の深山敦祥氏(株式会社東洋工機取締役)に就任していただきました。
 エコデザイン株式会社の理念は「循環型産業構造の構築への貢献」という点にあります。近年「循環型社会の創生」と言うことがよく言われるようになって来ましたが、「循環型産業構造の構築」は「循環型社会の創生」のための不可欠の要素であると位置づけています。そもそも近代社会が循環型でなくなってしまったのは産業革命以来の産業構造の変化によるところが最も大きいのです。 従って産業構造の変革なくして循環型社会の創生はあり得ない話です。
 産業に携わる者がこのことを痛切に自覚して行動していくことが人類の未来を明るくしていくと思います。エコデザイン㈱の理念として「循環型産業構造の構築への貢献」を掲げているのはこのような思いからです。
自己紹介のつづき その6へ
by masaaki.nagakura | 2005-04-20 09:02 | 自己紹介
自己紹介のつづき その4
 (はじめまして からのシリーズです)
 昭和46年(1971年)、三菱原子力工業㈱に入社しました。この会社は三菱グループ各社が出資し、原子力関連技術の開発及び実用化を行うために昭和33年(1958年)に設立されたものです。
 設立当初は研究開発が主であったようですが、私が入社する頃は軽水炉が実用化の段階に進みつつあり、約1000名の従業員の半数強が軽水炉の設計部門で残りが研究開発部門という構成であり、私は埼玉県与野の三菱マテリアル敷地内にあった三菱原子力工業大宮研究所で研究開発に携わることになりました。
 私が入社した頃は原子力開発の初期の熱いほとぼりが強く残っており、高橋修一郎氏という名物部長もおられて、比較的自由な雰囲気の中で研究が出来たことは幸いでした。
 以来平成11年(1999年)に至るまで28年間に亘り、大宮研究所に勤務し、その間、ウラン濃縮技術、トリチウム取扱技術(*)を始め、種々の研究開発や実験装置の設計を行いました。(注* トリチウムは核融合炉の原料となる物質です)
 特に最後の頃の数年ほどは10人ほどの開発プロジェクトチームのリーダとして小型中性子発生管の開発に取り組みました。小型中性子発生管というのは内径40mmほどのステンレス管の中でトリチウムと重水素を高速で衝突させて核融合反応を起こさせて中性子を発生させる装置で、石油探査のセンサ等として使用するもので、石油公団の委託により進められたものです。
 この小型中性子発生管の開発の中でオゾン発生器を製作しました。このオゾン発生器は材料の洗浄を目的としたものです。
(中性子発生管の内部には120kVという高電圧がかかった部分がその絶縁性を保持するために内部の材料の清浄度は極度に高める必要があります。)
 オゾン発生器の製作をお願いしたのは長春師範大学から来られた高電圧電源の専門の王強先生で、高性能の沿面放電式オゾン発生器を完成させました。
 これが私のオゾン発生器との出会いの始まりでした。
 小型中性子発生管の開発は熾烈な高電圧放電現象との戦いの末、目標とする中性子発生性能を得ました。しかし残念ながら過酷な耐衝撃性を要求される石油探査用としての実用化には至りませんでした。
 現在、この技術は本開発のメンバーで加速器専門の三宅善信博士により、更に継続、発展させられ、核融合科学研究所等にて研究用に使用される中性子発生管として日の目を見るに至っており、そのことは本開発に懸命に従事した私にとって実に、喜ばしいことです。
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by masaaki.nagakura | 2005-04-19 12:39 | 自己紹介
自己紹介のつづき その3
  (はじめまして からのシリーズです)
 昭和44年(1969年)に早稲田大学応用物理科学部を7年かかって卒業し、名古屋大学応用物理科大学院修士課程に入学しました。あとから入学試験の成績はトップであったと聞かされました。かっての万年留年生が1番ということですから猛勉の効果はあったのだと思います。
 籍は応用物理科でしたが、身を置いたのは原子核工学科(現在量子エネルギー工学教室)の 伊藤憲昭研究室です。名古屋大学原子核工学科は出来てから4年目で学部4年生が最年長でした。
 伊藤研究室では元気の良い4年生(加藤、高橋、立花、小林、石橋等各氏)や同僚の修士課程の鄭さんとともに心温かい教員(池谷、森田、西堂)の指導を受けて恵まれた研究生活を送りました。
 原子核工学科の場所は緑も豊かで閑静で研究の環境としては最高と思えました。
 更に研究費が早稲田大学に比して遥かに豊富で、私学と国立の違いはこれほどのものか、と驚きました。(逆に早稲田大学は乏しい研究費でよくやってるものだ、と感心もしました。)
 私の研究テーマはアルカリハライド結晶のカラーセンター(*)の構造に関するものでした。(注*アルカリハライドというのはリチウム、ナトリウムなどアルカリ金属と呼ばれるものとフッ素、塩素、臭素、ヨウ素などハロゲンとよがれるものが結合した結晶です。そのようなものにエックス線などを当てると一部の結晶構造が変化して着色するのですがその結晶構造の変化した部分をカラーセンターと呼んでいます。)
 私は当時実験になれておらず、クライオスタットという液体ヘリウムで冷却し、真空断熱した装置を液体ヘリウムの入ったまま開放し、あわや装置を壊しそうになりましたが、この時だけは伊藤先生も渋い顔をし、私は大いに冷や汗をかいたものです。
 名古屋大学の大学院生活のうちで全く波風がなかったかと言うとそうでもなく、ひとつには学園紛争の問題がありました。
 私は早稲田大学で既に学園紛争を経験していました。昭和41年(1966年)授業料値上反対闘争として学生が150日間に亘り、大学の教室や構造を占拠するという事件です。
 昭和44年1月には東京大学の安田講堂を占拠した学生を機動隊が排除するという安田講堂攻防戦なるものがあり、それを機に学園紛争が急速に全国の大学に広がりました。私が名古屋大学に入った年に、名古屋大学にも飛び火し、学生が豊田講堂や文科系の教室を長期にわたり占拠する形になってきました。
 このような一連の学園紛争は学生の大学や社会に対する不満がいわば爆発したものと言え、私も彼等の心情が理解できましたが、まとまった思想性は皆無で、不毛な結果しか齎さないと観ていました。
 その頃名古屋大学でも紛争に参加していない(普通の)学生の集まりでこの是非が論議される機会がしばしばありましたが、私は早稲田大学での経験も語り、一貫して反対の意思表示をしていました。
 私の意見が多少影響したのかは分かりませんが、名古屋大学の学園紛争は紛争に参加してない学生達がバリケードを突破して占拠を解除するという恐らく学園紛争の中では異例の終焉を迎えました。(学生達のバリケード突破の後に機動隊が入ったため新聞では機動隊による解除のように報道されていたかも知れませんが)
 私はこのことについては名古屋大学の学生達には随分しっかりした連中がいるものだと本当に感心しました。
(自己紹介のつづき その4へ)
by masaaki.nagakura | 2005-04-18 12:45 | 自己紹介
自己紹介つづきその2
 (はじめまして からのシリーズです)
 必死で勉強を始めたのですが、その頃の私の勉強方法はちょっと変わっていました。
 相変わらず大学に行くのは時々で大部分の時間は新大久保の下宿に閉じこもり、腹が減ったときには即席ラーメンで腹を満たし、眠くなると眠り、それ以外は机にかじりついていました。そうしていると睡眠に就く時間が段々遅くなり、とうとう朝に眠り、夕方に起きるというように昼と夜が逆転してしまいます。流石にこれはまずいので1日我慢して眠らないで、正常な状態に戻すといったことを繰り返していました。
 学部7年生の時、4年生と一緒に応用物理科の大照研究室(現在橋本研究室)に入り、パターン認識の卒論に挑戦しました。パターン認識というのは手書き文字の読み取りや指紋の判別などを検出器とコンピュータにやらせる技術です。私は赤外線スペクトルデータからその化学組成を導く研究をして、一応の成果はあったのですが大照先生の評価は芳しくなかったようです。
 今から考えてみると私の方法はちょっと複雑な関数を使ったものでその頃のコンピュータでは判別に時間がかかり、実用性がなかったのかも知れません。
 研究はこんな具合で大きな成果はあったといえませんが、大照研究室で研究心旺盛な6人の 4年生(木ノ内、雁野、藤井、西原、石田、明石各氏)と一年をともにし、閉じこもりの独学生活で相当失っていた社会性を取り戻せたしだいです。感謝感謝。
自己紹介つづきその3へ
by masaaki.nagakura | 2005-04-15 09:26 | 自己紹介
自己紹介つづきその1
 (はじめまして からのシリーズです)
中学3年の夏、愛知県蟹江町に引越し、中学も沼津第2中学から愛知県蟹江中学に転校しました。
 このように転々として来たのは父親が会社を変えてきたからですが、蟹江では東洋工機という工作機械の会社を設立しました。その会社は弟が跡をついで現在に至ってます。
 親の新築した家は田んぼの中の一軒家で昼は田んぼに白鷺が舞い降り、夜は食用ガエルのぶーぶーという鳴き声の合唱を聴き、家の光を目指してウンカというのか虫の大群が押し寄せ、川と言うより縦横に走る田畑用の用水路には雷魚やフナも豊富で、沼津も随分田舎だと思ってたのですが、それより更に田舎でした。中学生も野生児で悪く言うと野蛮でしたが、今でも付き合いが続いてます。
 高校は名古屋の明和高校に入りました。この年代の例に漏れずいたずら者も結構いましたが、いわゆる受験校で表面的には温和でまじめな気風があり、私も大過なくすごしました。
 ただ好きな女生徒に一言も口を聞けなかったのがいまだに心残りです。
 大学は早稲田大学の応用物理科に入りましたが自称ニヒリズムというのに陥り、大学にはほとんど行かなくなりました。生きてる意味というものが全く分からなくなってしまったのです。いわば渡り鳥が方向感覚を失ったような状態で、パチンコをしたり、哲学書を読んだり、眠ったりの日々を過ごし、これではいかんと勉強を始めたのは大学も3年になってからです。その頃応用物理科の教授であった小林寛先生が地球上でただ一人私を見所があると言ってくださり、先生の家にはよく遊びに行き夜遅くまで話し込んだものですが、そのことで現在の私があると今でも感謝しております。
4/15自己紹介つづきその2に続きます
by masaaki.nagakura | 2005-04-14 10:47 | 自己紹介