カテゴリ:自在心の探求( 9 )
自在心の探求9 グレハムという犬の話
大分前の話になりますが、伴侶が裏山から2匹の子犬を捕まえてきました。野犬の母犬が山中の穴の中で育てていた子犬です。一匹は原瀬さん(小川町飯田に住む中国文学の教授)に飼ってもらい、一匹は
グレハムという名を付けて我が家で飼いました。
野良犬の子ということもあって、警戒心が強かったのですが、毎日一緒に散歩するなどして、段々馴れてきました。
ある日、綱をつけたまま、いなくなってしまいました。
裏山(官の倉山)の上の方からキャンキャンと鳴き声が聞こえて来ました。多分綱が絡まって動けなくなったのでしょう。鳴き声を目指して探しました。
官の倉山には一ヶ所ハイカーが登るための鎖が設けてある急な坂があります。鳴き声はその辺りからです。
ところが、近づいたな、と思うと鳴き声はピタッと止まってしまうのです。
しばらく探し回ってグレハムを見つけました。

何故に近づくと鳴き声を止めてしまうのか、と考えてみました。
グレハムは母犬から人が近づいたら絶対に鳴かないように、という訓練を受けていたのだろう、というのが私の推定です。

私はこの体験などから、犬だけでなく多分人間を含めて哺乳類全体、さらに母と子が一時期を共に過ごす生命の全てにおいて母から子への感覚的な伝達が如何に強力で根深いものであるか、と思いました。

グレハムはもともと見付けてもらいたいために大声で鳴いていたのに、「人が近づいたら絶対に鳴くな」という母犬からの命令が優先して鳴くのを止めてしまったのだと思います。

もともと自己防衛のために必要であったのであろう「人が近づいたら絶対に鳴くな」という行動原則が、「人に見付けてもらうために鳴け」というこの場合では妥当な判断に優先してしまったのでしょう。

人間は学習能力が他の生命に比類なきほど高度で、自らの行動原則を自らの体験によって現実に合うように変えていくので、このグレハムのような間違え(?)はしない、と思います。

それでも母親から物心がつかない頃、あるいは物心がつくか付かない頃に潜在意識に織り込まれた感情、もしくは感覚的な行動原則は容易に変えられるものではないのであろう、と思います。

私達凡夫は108の煩悩を持つと言われます。その煩悩の原因には自然が人間に与えてくれた本能からくるものもあるでしょうが、人間社会が個人に与えている所有の感覚からくるものがある、と思います。そらから更に根深いところに後天的に母から潜在意識に織り込まれた感情、もしくは感覚的な行動原則が、個人に与えられた天性や人間社会の要求する行動原則と矛盾したりして背負ってしまうトラウマもあるように思います。
このような煩悩あるいはトラウマから脱却して自在心を得るためにどうすればよいのか、ということを次回に考えてみたいと思います。




by masaaki.nagakura | 2014-11-01 11:10 | 自在心の探求
自在心の探求8 学習の落とし穴
人間の他の生命に比類なき学習能力がかえって人間を固定観念に縛り付けて、人間が本来持っているはずの自在心を奪ってしまう事がある、というような話をしました。
そのことについてもう少し詳しく考えてみます。

先ず学習能力というのは何でしょう。
学問的に詮索するととても難しいでしょうが、ここでは
学習能力というのは「経験から学びその学んだ結果を自らの考え方や行動の仕方に反映していく能力」と考えておきます。
この能力は人間だけでなく殆どの動物が持っている能力だと思います。たとえば昆虫などの行動を決めているのは彼らが生まれながらに持つ本能でしょうが、学習能力も持っていて、たとえば蟻や蜂はしっかりと自分の住みかを覚えるし、蝶は蜜の出る花の場所を覚えていて回遊しているようです。鳥や獣となると、その学習能力は相当高度なものになります。それと鳥や獣は自らの体験により学ぶだけではなく、親から子へと学習体験の結果(以下学習結果)を伝える、という能力が加わります。このように世代を越えて学習結果を伝える能力は鳥や獣において明確になりますが、魚や昆虫でもないとも言えなく、特に群れをなし、ある世代と次の世代が一時期を一緒に過ごす動物は全て世代を越えて学習結果を伝えているでしょう。蟻や蜂など、そしてこのブログに紹介した子育てをするクロツノツヤムシなど何らかの形で学習結果を伝えているかも知れません。

人間はこのような世代を越えて学習結果を伝える能力を昆虫、魚、鳥、爬虫類、そして人間以外の哺乳類に比して極めて高度に備えています。
人間はまた個人の学習結果を他の個人へ伝える能力も、抜群に備えています。
このように人間は自己の体験により学習する能力、世代から世代へ学習結果を伝える能力、そして個人の学習結果を他の個人へ伝える能力の三つの能力を他の生命に比類なきほど高度に備え、また発達させてきています。そしてこれらの能力が人間が自らを万物の霊長と誇り得るための必須の要素と、言えるでしょう。
人間はこれらの三つの能力に基づいて文明を発達させて、学問を作ってきました。また特に教育という形で世代から世代への学習結果の伝承を行ってきています。

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ところが、一方においてこれらの三つの能力と、それに基づいて構築してきた文明、学問、教育などが種々の矛盾、葛藤も生み出し、社会的問題や個人的苦悩を惹き起こし、人間が本来持っている自在心を奪っている面があることも事実です。

社会的問題の最たるものは戦争です。戦争は文明の力と力の競争という面があります。また人々を戦争に駆り立てるために教育機関が利用されます。学問が武器を作るために利用され、ときにはその戦争を正当化する理論を作りあげます。

個人的苦悩の最たるものは「理性と感情の解離」ではないか、と私は思っています。
社会が自らの秩序を保持していくために、社会は教育などを通じて個人が理性的行動をとるように導こう、とします。一方人間は本能を備えています。
また、多分人類が古代文明を発達させる以前の100万年を越える原始時代の学習結果の記憶を潜在意識の中に潜ませています。
他方文明とその文明を保持する社会は、一万年程度の間に
作り上げたもので、しかもその間に変動を繰り返してきています。
いわゆる理性的行動というのも、その時代の価値観に基づくもので、それが本能や潜在意識に潜む学習結果が導こうとする方向と矛盾し、それが個人に葛藤を、そしてその葛藤による苦悩を惹き起こしても不思議はありません。

現代の学校教育は多くの場合理性的な判断力を育てることに重点を置き、そのために人類の学習結果とも言うべき学問的知識の伝承を旨としているようです。このような知識はいわゆる顕在意識の世界に記憶されます。一方潜在意識の支配する感情は現代教育の中で、意識的に訓練されることはないようです。


社会の中で人間は概して社会的ルールに従った行動、理性的行動、あるいは合理的行動と言われるような行動を求められます。所で人間に行動への意欲をかきたてているのは潜在意識の支配する感情です。
そのため、社会の求める行動を、自らの感情に逆らってとらなければならない場合も生じます。
あるいは自らの感情に従い、社会が求める行動をとることを拒否する場合も生じます。またそのような拒否が著しくなって引きこもりにつながる場合も出てきます。

いわゆる近代社会は合理性を正義の旗印に掲げる傾向があるようです。つまり何かを行う、あるいは主張するにはそこに何か合理的な理由がなければならない、という考え方がなければならない、という考え方です。
それが時には潜在意識と対立して様々な社会的問題を惹き起こしていく場合があるようです。
たとえばいわゆる精神障害と言われている問題やいじめや引きこもりという問題などです。
こういう問題が論じられる時には往々にして、その責任が個人にあるという話も出てくるようです。そう言ってしまえば、そういう面もあるでしょうが、近代社会の考え方そのものの中にも遠源があると思います。

by masaaki.nagakura | 2014-10-17 11:38 | 自在心の探求
自在心の探求7 執着
人類が社会を形成する過程の中で個人とか所有という概念を作ってきたのであり、またそのことに気付くことで個人とか所有の概念への執着から自由になれる、という話をしました。
ここで執着というのは何のことでしょうか?
また執着から自由になれる、というのはどういう事でしょうか?
私がここでいう執着というのは「固定した概念、観念あるいは思い」です。個人とか所有への執着というのは、個人とか所有を絶対的な存在だ、思い込む心です。
また執着から自由になれる、というのはそのように思い込む心から解放されると言うことです。
そのような意味での執着=固定した思いが、問題なのは何よりもそれが強迫的であって、その思う人の考え方を根底の所で方向付けてしまうからです。
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話はやや横道にそれますが、ユークリッド幾何学というのが古代ギリシャのユークリッドによって基礎が作られて、発展、伝承されてきましたが、それは最近に至るまで絶対的な真理として信じられてきました。数字の場合は公理という前提があって、その公理を根拠として証明を行っていきますが、ユークリッド幾何学ではその公理は自明のもの、即ち疑いをはさむ余地がない真理とされてきたのです。実際、私達の日常の世界ではその公理は正しいと言って差し支えないのですが、宇宙全体に当て嵌めようとすると矛盾が出てきてしまう、ということが分かってきました。つまり絶対的と思われていたものが絶対的ではなかった、ということです。
ニュートンの力学も一時は絶対的な真理と見なされていましたが、アインシュタインの相対性理論により、それが絶対的ではないことが明らかになったのは有名な話です。
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無論数学や物理の世界と人間の心の世界を一緒に論じることは無理があるでしょうが、どちらも「思い込み」によって実際の姿が見えなくなってしまう、という点では共通しています。
人間は他の生命に比して抜群の学習能力を持っているのですが、またその学習によって様々な「思い込み」が生じ、それがまた人間の自在心の働きをさまたげているのもまた事実と思います。

by masaaki.nagakura | 2014-10-15 04:00 | 自在心の探求
自在心の探求 6 所有
怖れが自在心を妨げ、また怖れはわがものとしての執着があることから生じる、という話をしました。
怖れというのは多くの場合「何かを失う怖れ」です。
命を失う、愛を失う、金を失う、地位や名誉を失う、衣食住を失うなどの怖れです。
そして「失う」という事は「持つ」から失うのであって、もとから何も持っていなければ失うものもなく、何かを怖れることもなくなるでしょう。
理屈ではこの通りですが、凡夫はそれが出来ません。
どうしても何かを持ってしまうのです。
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では何で持ってしまうのでしょうか?
人間には自然が(あるいは宇宙が、あるいは神様がと言ってもいいと思いますが)与えてくれた自己防衛本能があるようです。これは人間だけでなくあらゆる生命に備わっている本能で、これがあるからこそ生命は生きていけるのでしょう。
人間が「持ってしまう」ということの深淵にはこの自己防衛本能が潜んでいるようです。
では自己防衛本能があれば「持ってしまう」のでしょうか?
あらゆる生命が自己防衛本能を備えているとすれば、あらゆる生命が「持つ」という感覚、所有の感覚を備えているのでしょうか?
人間以外の生命体になったことがないので明確なことは言えませんが、この所有の感覚は人間に特有ではない、としても人間に特別著しい感覚のようです。
その理由のひとつは他の生命に比類なき高度な社会を形成したことと関係がありそうです。
人間の社会は自らの秩序を生み出すために、古くから所有の概念を作り出したようです。
たとえば「泥棒」という言葉がありますが、これは「所有」の概念がなければ有り得ないのです。
「所有」の概念があって初めて「泥棒」があり、又それを罰する法律も出来、取り締まる警察も必要となります。
歴史をずっとさかのぼっていくと「所有の概念」がそれほど明確ではなかった時代があったでしょう。貨幣もなく、共同で狩をしたり、漁をしたり、果物や木の実を採取し、それを分かち合っていた時代には現在ほど明確な所有の感覚はなかったでしょう。農業が発明され、穀物が蓄えられるようになると、その穀物の管理責任あるいは利用権を持つものという意味での所有者があらわれて、同時に所有という概念が現れてきたでしょう。さらに貨幣が発明されてそれが人間社会に行き渡ると所有の概念は一層明確になってきたことでしょう。というのは貨幣はそれを所有するものがあることを前提に作られているものだからです。
さらに法律が出来ると「所有者、所有権」というような形で「所有の概念」が明確に定義付けられます。
これはそもそもそのような概念がなければ近代の法律が成り立たないからだ、と思います。
近代の法律は基本概念として、個人、自由、権利、義務等を有しますが、所有はこの中の権利のひとつとして重要な位置を占めています。ですから、この社会にいて無所得、即ち我が物として執着する心を持たない、と言っても簡単ではありません。
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でもそれについては出来ないことではなさそうです。
それは「この社会に行き渡っている所有の観念が約束ごとであって、絶対的な存在ではない、仮の姿であること」に気づけば良いのだと思うのです。
私は貨幣や法律が不必要なものだ、いうつもりは全くありません。現在の貨幣経済や法律が理想から見てどうか、というのはともかく、貨幣や法律はこの社会を成り立たせ、存続させていくための手段として必須だと思います。
でもそれらはあくまでも約束ごととして存在するものです。たとえば子供達がままごとをするにしても、そこに何かしら約束をします。私がお母さんであなたが赤ちゃんとか、この葉っぱはお金で、この泥団子は饅頭でいくらです、とかままごとをします。
ちょつと乱暴な言い方のように聞こえるかも知れませんが貨幣とか法律というのもそのような約束ごとの発展したものです。法律の基本概念である個人、自由、権利、義務等もそのような約束ごとから出てきた観念であって自然に存在するものではないのです。ただ法律は人々に守ってもらわないと、存在意義がなく、守ってもらうためには、その正統性を示す必要があります。かってはその正統性の根拠が神であったり、神から権力を与えられた絶対君主であったりしたのでしょうが近代国家の法律は、多くが自然法という概念に基づいているようです。歴史的に観ると、イタリアでのルネサンスでローマ法が復活し、やがてジャンジャックルソーが社会契約説を唱えて、それが封建社会を覆していきます。ルソーは、人間の本来の自然な状態を想定し、その状態では個人は皆が自由で平等であったが、ある時にお互いに契約して君主を立てた、と主張します。これは君主の権力が神から与えられた、とする王権神授説とは真っ向から対立するもので、それが故に封建社会を覆して、近代の民主主義を形成してゆくための原動力となる思想となったのでしょう。
近代国家の法律は日本の法律も含め概ねこのルソーの思想「自然状態では全ての個人が自由で平等である」を正統性の根拠としていると、思われます。
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でもよくよく考えればわかると思うのですが、誰も「自然状態では全ての個人が自由で平等である」と言うことを証明出来ません。むしろ皆がそう思う事によってそれが正当化させている、と言うのが実際の姿でしょう。
そもそも自由と言ったり、平等と言ってもそれほど明確な概念では ないではありません。
個人の責任とか、個性の尊重とか、自己責任とかいう言葉もよく使われます。
この個人とか自己というのも実際には明確な存在ではありません。しかしそれを曖昧模糊としたままでは約束ごとは出来なくなるので、お互いに明確なもののようにしておく、というのが実際の姿だ、と思います。
自己の存在をつらつら思うに宇宙の森羅万象と繋がっています。だからこの自己というのは宇宙全体と不可分の存在であってどこからどこまでが自己で、どこから先は自己でない、という境界はありません。
この肉体が自己でそれ以外は他者である、という考えは成り立ちますが、この肉体を宇宙全体と切り離してイメージすることは不可能です。
実際生きている限り呼吸をします。もしこの肉体が自己としたらこの吸ったり吐いたりしている空気のどこまでが自己で、どこからが他者なのでしょうか。
また三度の食事で体内に取り込み食べ物はやがて自己の肉体の一部と化し、また肉体の一部は絶えず役目を終えて肉体から排出されていきます。
それらの食べ物や役目を終えた細胞は、どこまでが自己で、どこからが他者なのでしょうか。
そのように肉体を自己としても、この宇宙と明確な境界を見分けることは出来ません。
デカルトは「我想う。故に我あり。(Ich denken also bin ich)」と言ったそうです。これは自己の存在を肉体の方からではなく、心の方から確認しようとした結果の考え方と言えるでしょうか。
しかし「我想う、故に我がある」とすれば「想わなければ我はない」ということなのでしょうか。
たとえばぐっすり眠りこけている時などは何も想っていないので我はない、のか?
デカルトは存命しないのでこの疑問に答えてはもらえないでしょうが、想像するにデカルトはこの「我想う。故に我あり」ということで、自己の存在を確認した、と言いたかったのかも知れませんが、この「我想う。故に我あり」という言葉自身が絶対的な自己の存在がないことを語っているようにも思えます。
それから、「我想う」と言ってもその想いがどこから生じているのか、は考えてみる必要があります。
私は何かを考える時、自分が考えている、と思うのですが、その考える時に使っている言葉や概念は、この社会が与えてくれたものです。
だから、自分が考えている、と思っても実際にはこの社会の流れが自分にそのように考えさせている元にある、ということで、やはりそこには我という人間社会や宇宙から独立した存在はないのです。
一方絶対的な個の存在を否定してしまうと、個人の責任であったり、義務、権利というものもないことになって、法律というものも成り立たなくなってしまいます。
ですからいくら我の存在、個人の存在が曖昧なものであったとしても、法によって社会秩序を保っていくために約束として個人の存在を前提することは不可欠になります。

個人の存在を前提することにより権利、義務、責任、所有等の概念も明確な意味を持ち得ます。
個人の存在が曖昧模糊としたものとしてしまうと、権利、義務、責任もそして所有も曖昧模糊としたものになり、法律も正当性を失います。だから法律にもとづいて社会を形成する為には個人の存在を前提することが必要になります。
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話が大分長くなってしまいました。
私が言いたいのは、このように人類が社会を形成してゆく過程で、個人とか所有という概念も作られてきた、と言うことであり、またそのことに気付くことで個人とか所有の概念への執着から自由になれる、と言うことです。

by masaaki.nagakura | 2014-10-13 13:22 | 自在心の探求
自在心の探求5 怖れ
人が本来持っている自在心を奪っているのが怖れであり、自在心を取り戻すには無畏、すなわち怖れなき心が必要なのではないだろうか、でも怖れって何だろうか、それを取り除くって出来るのだろうか、というような話をしました。元々の怖れというのは、起こり得る危険を避けるために与えられた本能的な感覚ではないのでしょうか。これは人間にかぎらずあらゆる動物が自らの身を守るために持つ必須の感覚で、これを失うとたちまち危険にさらされるでしょう。だからもし、自在心を得るために怖れを除く必要があるとすれば、自在心を得るためには身を危険にさらさなければならない、ことになります。
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思うに観音教でいう「無畏」や般若心経でいう「無有恐怖」というのはそのような危険を察知するのに必要な怖れの感覚を無くした状態を言うのではないのです。
般若心経では「無有恐怖」という言葉が「以無所得故、菩提薩埵、依般若波羅蜜多故、心無罣礙、無罣礙故、無有恐怖、遠離一切顛倒夢想、、究竟涅槃。」という節のなかに出てきます。この中で般若波羅蜜や涅槃という奥深い境地に達しないと判らないであろう言葉を除くと「以無所得故、心無罣礙、無罣礙故、無有恐怖、遠離一切顛倒夢想」となります。この言葉を私なりに解釈すると「わがものとしての執着がなく、執着がないから、心に曇りがなく、曇りがないから怖れがなく、ありのままに観る」ということになります、
これを我々凡夫の側から見ると「わがものとしての執着があるため、心に曇りが生じ、曇りが生じるので怖れが生じ、ありのままに観れない」という解釈になります。
この解釈からすると、「わがものとしての執着がもととなって怖れが生じる」ということです。 また避けるべき怖れというのはわがものという執着から派生した怖れであって、生命として危険を察知する怖れの感覚ではない、という事にもなります。
ことわざに「身を捨ててこそ浮かぶせもあれ」というのがありますが、これも同じような事を意味していると思います。
では「わがものとしての執着」は捨てられるのでしょうか? あるいは「身を捨てる」ことは出来るのでしょうか? これについては稿を改めます。

by masaaki.nagakura | 2014-10-11 07:09 | 自在心の探求
自在心の探求 4 無畏
前稿の余談にて観世音菩薩と観自在菩薩は同じ菩薩でこれらの菩薩が出てくる観音経と般若心経に共通するのは無畏ということ、と話しました。観音経では観世音菩薩が施無畏者とされます。施無畏者というのは、「怖れなき心を与える者」という意味でしょう。般若心経には「無有恐怖」という言葉が出てきます。これは「怖れなき心の姿にある」ということでしょう。観世音菩薩と観自在菩薩は同じ菩薩ですから、この菩薩は「怖れなき心の姿にあり、また怖れなき心を与える者」である、ということになります。私を含め多くの人はしばしば、怖れに悩ませられるので怖れなき心の姿になりたいし、また怖れなき心を与えて欲しいのです。
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般若心経を唱えると、心が澄みわたる思いがするし、南無観世音菩薩と唱えれば慈悲の心に包まれて、怖れがなくなる思いがします。そして怖じ気づいた心から解放されてまたより良く生きていこう、とする勇気も湧きます。
しかし、般若心経を唱えたり、南無観世音菩薩と唱えるだけで自らの中の心の濁りがすっかりなくなるわけではなく、一切の怖れから解放されるわけでもありません。
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確かに怖れは、人から勇気を奪い、その人が本来持つ力を閉じ込めてしまうようです。別の表現をすると、「怖れは自在心を失わさせる」のです。
では自在心を得るためには怖れを取り除ければよいのでしょうか。そしてもしそうであったとしても、怖れを取り除くということが出来るのでしょうか?この話の続きは次稿にて。
by masaaki.nagakura | 2014-10-09 04:21 | 自在心の探求
自在心の探求3 自在の起源
タイトルに自在という言葉を使ったのは、私が時々唱えている般若心経に出てくる観自在菩薩のイメージからです。この般若心経には「何ものにも束縛されない自在な心の姿」が表されている、と思います。
でも実際にそのような自在な心の状態に成りきるのは極めて難しいのです。少なくも私にとって至難のわざです。そして多分私以外の多くの人にとっても難しいのでないか、と思います。
もし簡単に自在な心が得られるなら、何も「自在心の探求」などするには及ばないでしょう。
余談
観自在菩薩が観世音菩薩と同じだと教えて下さったのは元東京外語大学のベンガル語の教授であった奈良毅先生です。私が観音経と般若心経を唱えている、と言ったら、そのように教えて下さったのです。私はそれまで観自在菩薩と観世音菩薩は別のイメージでとらえていたので少し驚きました。そしてその話に若干の疑問も抱いてきました。ところが最近読んでいる「観音の来た道」(鎌田茂雄著)によれば、インドから伝わった法華経の翻訳をした鳩摩羅什が観世音菩薩と訳したのを玄奘三蔵が観自在菩薩と読み替えた、ということです。インドからの原語(サンスクリット語)のアバローキテーシュバの意味は「拝まれる最も尊い自在の力を有したもうお方」という意味だということで、それなら確かに観世音というより、観自在ですね。
とにかく観世音菩薩と観自在菩薩が本来同じ菩薩であることは確認出来ました。
私の知る限り観自在菩薩という菩薩の名は般若心経にしか現れてきません。
東アジアにおいて観世音菩薩は絶大な信仰を集めていて、多くの観音像が拝まれていますが、観自在菩薩像が拝まれている、という話はあまり聞きません。
サンスクリット語の訳としては玄奘三蔵が訳した観自在菩薩が正しいのに東アジアて普及したのは観世音菩薩であったのは何故でしょうか?また鳩摩羅什が敢えて観世音菩薩と訳したのは何故でしょうか?私は鳩摩羅什が観音経全体の意味を汲んで観世音菩薩と訳したのでないか、と思います。観音経の中で観世音菩薩はその名を唱えた全ての人を救済すると、されています。このことはこの菩薩が信仰を集める由縁で、そのことに着目すると観世音菩薩という訳はいかにも相応しいです。
さて般若心経の観自在菩薩と観音経の観世音菩薩が同じ菩薩として、この二つの経典にある共通点は南でしょう?
私はそれが「無畏」ということでないか、と思います。
この事に関しては稿を改めます。
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by masaaki.nagakura | 2014-10-05 06:13 | 自在心の探求
自在心の探求2.自在って何
自在心の探求というタイトルで始めたのですが、自在って一体何なのか?
世の中には「自由」って言葉もあるけれど、じゃー自由って一体何なのか?
この解はこの論の中で考えていきます。
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by masaaki.nagakura | 2014-10-05 05:47 | 自在心の探求
自在心の探求1.はじめに
小川山野草の会の山野山野草展を観て思ったは、山野草が自在に自己表現をしているな、ということです。
人間も本来このように自在に自己表現していい、のでないかと思ったのです。
そこでどうしたらこの山野草のように自在な自己表現ができるのか、を考えてみることにしました。
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by masaaki.nagakura | 2014-10-05 05:22 | 自在心の探求