カテゴリ:世界平和のための老子( 21 )
世界平和のための老子(21)おわりに
 老子の「無為自然」、孔子の「思い邪なし」、孔子の「意なく、必なく、固なく、我なし」、釈迦の「諸法無我」、キリストの「明日を思い煩うなかれ」。 これらの言葉の根底に共通にあるのは「存在に対する限りなき信頼感」であると思います。 この信頼感の対象を敢えて言えば「母なる大自然」であったり「道」であったり、「神」であったり、「法」であったりするでしょうが、それが何であろうと「限りなき信頼感」が真の安心をあたえ、人と人の間に心底からの繫がりをつくり、光に満ちた世界をつくっていくと思います。
 自らを顧みると、その限りなき信頼感に至るには程遠い状態にあると感じます。
 そして現在の世界を観ても、多くの人々が不信感、不安、恐怖の内に呻吟しているように思います。

 それでも私にとってまた世界にとって進むべき方向はそのような大いなる信頼感の回復である、と思います。
 それこそが人と人の絆を深めさせ、人と自然との繫がりも豊かなものとし、世界を平和に導くものと思います。

 老子についていろいろ語って来ましたが、老子から最も学ぶべきことはこの大自然、大宇宙への限りなき信頼感である、と思うのです。

 老子についての話はひとまずお終いにしますが、私自身がこの老子の「大道」に一歩ずつでも近づいていきたいと願っている次第です。
by masaaki.nagakura | 2012-11-21 13:22 | 世界平和のための老子
世界平和のための老子(20)小国寡民
 この辺で老子の話しをお終いにしようと思って、いたのですが、老子の「小國寡民」という思想については一つ話しておきたいと思います。

 第80章(全文)
 小國寡民。使有什伯之器而不用、使民重死而不遠徙、雖有舟輿、無所乗之、雖有甲兵、無所陳之。使人復結繩而用之、甘其食、美其服、安其居、樂其俗、鄰國相望、雞犬之聲相聞、民至老死、不相往來。

書き下し文
小国寡民。什伯の器有るも而も用いざらしめ、民をして死を重んじて而して遠く徙らざらしめば、舟輿有りと雖も、これに乗る所無く、甲兵有りと雖も、これを陳ぬる所無なからん。人をして復た縄を結びて而してこれを用いしめ、その食を甘しとし、その服を美とし、その居に安んじ、その俗を楽しましめば、隣国相い望み、雞犬の声相い聞こゆるも、民は老死に至るまで、相い往来せざらん。

翻訳:国は小さくて民は少い。様々な道具があるが、用いないようにし、人々が身体を大切にし、遠方に移って行かないようにする。 船や車があっても乗るわけでなく、武器があっても並べることはない。人はまた縄を結んで用い、その食を美味とし、その衣装を美麗とし、その居住するところに安んじていて、その風俗を楽しま、隣国同士が見えていて、鶏や犬の声が聞こえていても、老いて死ぬまで行き来することがない。

 これは観方によっては人間の文明を否定するような思想です。
しかし、この表現によって老子が主張したかったことの一つは循環志向ということ、そして地方分権という方向性でないかと思うのです。
老子が生きていた時代は農耕の発達により、多くの国家が現れ、覇を競っていた時代だと考えられます。
いずれも強大な国家(大国)をめざしていたでしょうが、老子はそれに対して「小国寡民」ということばでアンチテーゼを唱えているのです。 このことは当時の拡大志向型が主流の時代に在って、循環志向への道を示したものとも言えるでしょう。
 それにしても船や車を用いず、隣国と行き来することもない、とは相当極端な言い方です。
 これをまともに解釈したら原始時代に復帰しなさいと、言うようなものです。
 しかし私は、これは循環志向への主旨を強調するために敢えてした表現であると思います。
 この文章には「船や車があっても用いない」とあります。船や車があるという社会は既に原始時代ではなく文明化されている社会です。それでも敢えて用いないというのはそれら文明の利器に依存しない生き方を強調しているのだと思います。

 近代文明はこれまで拡大志向であったのですが、これからは持続可能性の追求、すなわち循環志向に転じていくことが必要です。 ところで私自身は近代文明が循環志向に転じていくためには科学技術は必要と考えております。これまで拡大志向的な方向で進んできた科学技術の利用を循環志向的な方向の利用に変えていく、というのが持論です。  したがって私の未来社会の像は老子の小国寡民ではなく、科学技術を高度に発達させ、必要に応じてそれを自在に用いることも出来る社会です。 
 
 しかし、老子の文明に依存しないという、循環志向はたとえ文明が高度に発達した段階でも必要な精神と思います。 また小国寡民という表現の中に含まれる地方分権的な発想は注目すべきと考えています。

循環志向の目的は持続可能な社会を構築です。そのための科学技術は必要です。しかし、持続可能な社会の構築は科学技術の発達のみで達成されるものではなく、同時に物質文明に依存せずに生きていいける肉体と精神の力を養うことも不可欠です。  如何に精巧に構築された物質文明であっても弱点を持ち、それにより訪れる危機から救うのがが精神力と肉体の力であるためです。
 またグローバリズムの進行する一方で地域社会の絆を深め、様々な危機に望んで相互に助け合える精神(昔は普通にあって、現在希薄になっている精神)も不可欠です。
 老子の「小国寡民」はそのような世界への想いを暗示するものと思います。
by masaaki.nagakura | 2012-11-02 13:16 | 世界平和のための老子
世界平和のための老子(19)「足るを知る」について補足
 世界平和のための老子という表題で老子の思想について自分なりの観方を語って来ました。
 そして、老子の「足るを知る」という思想が世界に広まり、それが世界大戦を未然に防ぎ、更に持続可能な世界を目指す新たな時代への活路を切り開いていくであろう、という趣旨の考えを示しました。
 このような考え方には多分いろいろな反論も出されると思います。

 特に「足るを知る」という考え方自体が、近代の思想からするといかにも消極的で、そのような考え方でこの時代が乗り越えられかということ、それに本当にそんな考え方が今の時代に広がるのであろうか、という疑問が出されるでしょう。

 この疑問に対する答えになるかは判りませんが、「足るを知る」という思想についてもう少し補足したいと、思います。
 この老子に関するシリーズの中で老子の思想の根底には「自己存在、人類、あらゆる生命、あらゆる無生命が母なる宇宙始原、母なる大自然と一体であり、母なる大自然にはぐくまれ、絶対的に守られている」というインスピレーションが存在する、という話をしました。
 老子の「足るを知る」という思想は根底にこのようなインスピレーションがあってこそのものです。

 まずこのことに思いを致さない限り、老子の「足るを知る」思想は理解し難いものとなるし、あるいは「やせ我慢をしろ」という思想と同一視されるでしょう。

 思うに近代に最も枯渇しているものがあるとすれば、それはエネルギー資源でもレアーアースでもなく、まさに上記のインスピレーションです。
 
 残念なことにこのインスピレーションは私にも不足していると感じています。
 常に何らかの欠乏感に悩まされてるいます。

 しかしそれでも自らの内に「自らもまた母なる宇宙始原、母なる大自然と一体に違いない」と言う信念が確かに芽吹いているのを感じます。 そしてこの信念は私だけでなく、多くの人に芽吹きつつあると思うのです。

このことが私が「足るを知る」思想がやがて全世界に広がり、世界大戦は防がれ、人類が共同して現在のそして来るべき共通の困難に立ち向かっていくであろう、という楽観論を強く主張する最たる所以です。


 

 


 
by masaaki.nagakura | 2012-11-01 15:56 | 世界平和のための老子
世界平和のための老子 (18)非戦論⑧「足るを知る思想が世界に広がるであろう」とする理由
 老子の「足るを知る」思想は広められる、と言うより広まるであろう、と言う話をしました。
 そしてその理由の一つとして現在が動力機関の発明が引き起こした産業革命の限界状況に到達しつつあり、拡大志向から循環志向への転換点にある、と言う考え方を話しました。
 しかしここで考えなければならない問題があります。
 それは人類の歴史において農業の発明が引き起こした産業革命が限界状況に達した後には、土地の争奪戦という形での戦争が頻発した、と言うことから、動力機関の発明が引き起こした近代の産業革命もエネルギー資源やその他の資源を巡る争奪戦と言う形での戦争を引き起こしていくのでないか、という恐れです。
 確かに近代で過去に起こった2回の世界大戦はその中に資源の争奪戦という要素も含んでいた、と考えられます。
 そして現在世界はますます資源を大量に消費する、と言う状況に向かっているようです。このままいけばそれを奪い合う戦争があちこちで勃発しても不思議ではなく、悪くすれば第3次世界大戦ということもあり得ない話ではないと、考えられます。

 しかし、現在には過去の世界大戦の起こった時代にはなかった次の3つの状況があります。
(1)グローバリズムと交通機関の発達により、ビジネスおよび私的な面での国際的な交流が進んでいて、それは民間レベルでの相互理解を深めさせている。
(2)地球温暖化等の人類全体が共同して立ち向かわなければ解決できない環境問題に直面している。
(3)教育の普及、マスコミニュケーションシステムの発達、インターネット等による情報の共有化の進展により現代と言う時代が直面している限界状況(エネルギー資源の枯渇、地球温暖化等の環境問題)に関しても人類全体での共通認識が進みつつある。

 これらの状況はいずれも世界大戦の抑止力として、大きな意味を持っている、と思います。
 特に上記(2)の地球全体が直面している環境問題は、現在が人類にとって大戦争などをしている余裕はなく、一緒に力を合わせねばならない時期であることを明確に示唆しています。 また上記(3)の状況〈情報の共有化)が、それを人類の共通認識としつつあり、また上記(1)の状況〈民間レベルでの相互理解)がそのような問題に向かって相互に協力しあえる心情的な基礎を作ってきています。

 確かに世界全体の方向はまだ拡大志向が主流でしょうが、「このままの方向では破滅に向う恐れがある」という危機感は多くの人びとの顕在意識と潜在意識に根付いて来ていて、それがやがて大きく時代を転換していくと考えられるのです。 
 破滅を回避するためにまず必要なのは「足るを知る」と言う思想です。
 このこともやがて人類全体に理解され、それが世界大戦を回避させ、また人類全体が協力して新たな時代創造していく方向に導いていくと考えます。
 
by masaaki.nagakura | 2012-10-30 07:17 | 世界平和のための老子
世界平和のための老子(17)非戦論⑦「足るを知る」思想は世界に広められるか
 老子の言う「足るを知る」思想が世界に広まれば、近代において過去に起こったような悲惨な戦争はなくせるであろう、という話をしました。
 ではその「足るを知る」思想が世界に広めることが可能であろうか、ということについて話してみたいと思います。
私の推論を先に言うと、「足るを知る」という思想を世界に広めることは出来るであろう、と言うか、それを意図的に広めようとしなくても広まるであろうということです。

 そのように推論する理由は次の2点です。
(1)人類の歴史の中で現代は拡大志向から循環志向への分岐点にあり、それが必然的に「足るを知る」方向へ人類を導いていく。
(2)現在の人々の考え方、感じ方の中に「足るを知る」という方向への確かな芽吹きが感じられる。

 まず上記(1)について説明します。
 私は人類の歴史を拡大志向の時代と循環志向の時代が交互に訪れる、と捉える観方を持っております。
 拡大志向への傾斜は人類の3回の産業革命の結果起こっていると考えます。
 その3回の産業革命というのは道具の発明、農業の発明そして(化石燃料をエネルギー源とする)動力機関の発明です。現在の我々が普通に産業革命というのは最後の動力機関の発明ですが、道具の発明と農業の発明というのも人類の生存範囲と人口を増大させ、また生活形態に画期的な変化をもたらしたものであり、その意味でこれも産業革命と呼ぶことにします。
 これらのいづれの産業革命においてもその発明は次第に人類のほぼ全体に波及し、更に人類の生存範囲を広げ、また単位面積に生存し得る人類の数を増大させます。 このように産業革命が波及していく過程においては人類の考え方も拡大を目指す方向に傾斜します。このような時代を拡大志向の時代と呼ぶことにします。ところで拡大志向の時代というのはいつまでもつづくわけでなく、やがて拡大の限界状況が現れます。それは地球が有限であること、そしてその産業革命は自然界の与える制約条件の中でなされるものであるからです。
 道具の発明は人類の狩猟の能力を飛躍的に増大させたのですが、狩猟される対象である獣の数は自然界の産みの力を超えることはないのです。 従って道具の発明という産業革命は自然界の産みの力という制約条件の元で限界に到達します。
 農業の発明は人類に自然界も産みの力という限界から人類を解き放ちますが、これも耕作可能な土地面積の有限性という制約を受けます。
 動力機関の発明がもたらした産業革命はその波及がまだ進行中ですが、化石燃料の有限性と地球温暖化など環境負荷の限界という制約を受けていて、すでにそれによる発展の限界にさしかかってきています。
 このように人類の過去における道具、農業、の発明がもたらした産業革命は限界状況に到達し、また現在進行形である動力機関の発明がもたらした産業革命も限界状況に到達しつつあります。
 このように産業革命が限界状況に到達すると人類の考え方の指向性は拡大志向より循環志向に転じていきます、と言うより転じざるを得なくなります。
実際の歴史をたどると産業革命が限界状況に達しても、人類の考え方が直ちに拡大志向から循環志向へ転じるものではなく、しばらくは拡大志向が継続します。
 さて限界状況に到達しても拡大志向が継続するとどうなるでしょうか? そこでは限られた自然界の制約条件を人間どうしが奪い合う状況が生まれます。それが発展すれば大集団どうしの奪い合いである戦争に発展します。
 農業の発明から出発した産業革命による拡大志向は主に耕作地の拡大という方向に向けられ、それはやがて古代文明の形成に向けられます。 世界では拡大志向のもとに4大文明の発祥と更に古代帝国の形成がなされます。 日本では弥生時代より平安時代に至るまでが拡大志向の時代と言えるでしょう。
 やがてそれらの文明が進めてきた耕作地の拡大は限界状況に達します。そこから世界では古代国家間の戦争や内戦の時代が出て来ます。日本では平安末期より戦国時代へのと続いていきます。
 これらの戦争や内乱は人々が過去から続いてきた拡大志向をやめない限り継続します。
 やがて戦争や内乱の末に生まれてくるのは循環志向の時代です。世界史では中世と言われる時代です。日本では循環志向による国家を創設しようとしたのは頼朝だと思いますがそれを完成させたのは徳川幕府でしょう。 ヨーロッパにおいてはキリスト教が拡大志向から循環志向への転向を導いた起点となったように思います。 ヨーロッパで中世と言う時代が始まるのは西ローマ帝国の滅亡(476年)からと言われますが、古代からの西ローマ帝国の滅亡は拡大志向の終焉を象徴することかも知れません。
 さて近代の拡大志向はイギリスにおける蒸気機関の発明を起点にするといえるでしょう。その拡大志向の萌芽はルネッサンスにあると考えられます。 と言うのはルネッサンスはキリスト教の導いた循環思想に束縛された精神を開放して、拡大志向を許容する精神的土壌を形成した、と考えられるからです。
蒸気機関の発明が齎した変化というのはそれまで人力が為していた仕事(自然界の変容)を動力に置き換えたことで、それにより人力の有限性という限界状況はなくなりました。産業革命当初の考えではそれにより人類の物質的な生産力は限界がなくなったように見えたでしょう。 今日に至ってエネルギー資源の有限性と地球温暖化等の環境負荷による自然の制約条件がほとんどの人にとって顕わなものとして現れてきています。 動力の発明による産業革命が限界状況に到達しつつある、と言うことです。
 話が大分長くなってきたのでこの辺で稿を改めます。
 
 
by masaaki.nagakura | 2012-10-17 13:01 | 世界平和のための老子
世界平和のための老子(16)非戦論⑥ 足るを知ることで戦争は無くなるか
 老子の「足るを知る」の意味は「宇宙に対する限りない信頼感を持って現状をそのまま受け入れる」ということである、という話をしました。
 ではもしそのような思想が全世界に広まったとしたら戦争はなくなるのでしょうか。もちろんその前にそのような思想を全世界に広げることが出来るだろうか、という問題がありますが、この問題については後で検討することにし、ここでは仮にそのような思想が広まったとしたら戦争がなくなるか、ということについて考えてみます。
 
 「人類の歴史は戦争の歴史である」と言われることがあるように、人類の歴史ではいつの時代にも戦争があったようです。そのことから見ても近い将来に戦争が全くなくなるということは考えにくいのです。私もこの50年位の間に戦争が全くない時代が到来するとは思えません。 その頻度は減少していったにしろ、世界のどこかで紛争、あるいは小さな規模の戦争のような状態が発生するのを防ぐのは難しいと思います。しかし、やはりどうしても防がなければならないというのは、近代以降に発生した非常に大勢の国民を巻き込んでいく国家間の戦争です。 以下では「戦争が防げるか」という意味を「近代の過去に発生したようなに大きな国家間の戦争を防げるか」と解釈した上で話しを進めます。
 
 私はそのような意味において「戦争は防げる」と考えています。そのひとつの根拠は東アジアの歴史です。 日本、中国、朝鮮、台湾を含む東アジアの近代以前の長い歴史を振り返って見ましょう。
 この地域においては歴史的な尺度からは極く短い期間に置いて国家間の戦争はあったのですが、数千年の間、ほとんどの時代において国家間での平和な関係が続いてきています。
 このような平和な状態が世界全体において末永く継続することは可能であろう、と考えています。

 東アジアにおいて戦争が起こったのは西欧の列強(当時)の東アジアへの進出が産業革命を背景に活発化してきてからのことです。 残念ながら日本がその戦争を引き起こした台風の目になったのは歴史的な事実ではあると思います。その日本の歴史には日本人として反省すべき数々の問題があると思います。しかし、一方においてその日本の戦争への傾斜を惹起した背景には西欧列強によるアジアの植民地化があり、それが当時の日本人をして、戦争行為を正当化させた理由のひとつになっていたのもまた歴史的な事実でありましょう。 
産業革命と科学技術の発達は人類に過去になかった物質的な豊かさをもたらしたでしょうが、一方において人類に「自然は支配出来るものである」という傲慢な錯覚を与え、それが人類に限りない支配欲を植え付け、その支配欲は自然に対するばかりでなく、人類そのものに向けられていった、というところに近代の戦争の底辺に横たわる心理的な構造があるように思います。
 近代以前に人々が普通に持っていた自然に対する畏敬の念が失われ、それが人間に対する畏敬の念も薄めてしまい、安易に多くの人を殺傷する近代の戦争を導いたのでないか、と思うのです。

老子の「足るを知る」の思想はこの宇宙、この大自然に対する限りなき信頼と畏敬から来るものであり、それがまた全人類、全生命への信頼と畏敬に繫がっています。
 そのような思想は本来特別なものでなく、素直になれば誰の心にも存在するものです。この心を取り戻しさえすれば、近代において過去に起こってしまったような悲惨な戦争は起こるはずはない、と思います。
 
 
 
 
 
by masaaki.nagakura | 2012-09-27 13:58 | 世界平和のための老子
世界平和のための老子(15)非戦論⑤ 足るを知るの意味

 「足るを知らざることから戦争が起こる」という老子の思想について話をしました。
 またその事に関連して、次を考えて見る必要がある、ということを話しました。

(1)老子いう「足るを知る」の意味は何なのか?
(2)「足るを知る」ことにより本当に戦争は無くせるか?
(3)「足るを知る」思想を世界に広めることは可能であろうか?

 ここではまず「足るを知る」とい言うことの意味を考えてみたいと思います。

 老子の言う「足るを知る]という言葉はよく考えてみると解釈の難しいところがあります。
 第46章の最後に「足るを知るの足るは常に足るなり」という言葉が有ります。
 この意味をとりあえず「足るを知るの足るということは物質的過不足に関わらず常に足るという気持ちを持つことである」と解釈してみましたが、この解釈にも無理がありそうです。
 例えば食料が不足して今にも死にそうな時にそれでも足るという気持ちを持つ、ということには納得がいきません。 また常に足るという気持ちであれば、何かを求めようとする気持ちにもならないでしょう。
 私はこの「足る」というのは「現状をそのまま受け容れる」ということではないかと思います。

 この「そのまま受け容れる」というのは人間に対する観方にも現れます。

 第49章(全文)
 聖人無常心、以百姓心爲心。善者吾善之、不善者吾亦善之、徳善。信者吾信之、不信者吾亦信之、徳信。聖人之在天下、歙歙爲天下渾其心焉。百姓皆注其耳目、聖人皆孩之。
(聖人は常の心無く、百姓(ひゃくせい)の心を以って心と為す。善なる者は吾れこれを善しとし、不善なる者も吾れまたこれを善しとす。徳善なればなり。信なる者は吾れこれを信とし、不信なる者も吾れまたこれを信とす。徳信なればなり。聖人の天下に在るや、歙歙として天下の為に其の心を渾(にご)す。百姓皆その耳目を注ぐも、聖人は、これを皆孩(がい)とす。

訳:聖人は一定の心を持っていない。 万民の心を心とする。善なるものはこれ善とし、不善なるものもこれを善とする。 その徳が善であるためである。信なるものはこれ信とし、不信なるものもこれを信とする。 その徳が信であるためである。聖人は天下にあって天下の為にその心を濁す。万民は其の耳目を注ぐが、皆を赤子のような心にしてしまう。

 ここには善なるものも不善なるものも、信なるものも不信なるものも同じく受け入れるという、底なしの抱擁力が表されています。 これは「足るを知るの足るは常に足る」と言う底なしの受容力と相通じるものです。
 
 総じて老子の思想には人間に対しても現状に対しても「そのまま受け入れる」という心が流れています。
 しかし、この「そのまま受け入れる」と言うことは「だから行動をしない」と言うことではないでしょう。
 「腹がへっていても、その状況を容認し、食べない」ということではなく「腹がへっている状況を容認し、食べる」と言うことです。

 「それなら我々普通の人間と同じでないか」と思われるでしょう。実際老子のような考え方をもったとしても、その行動が特別に常人と異なるようには見えないかも知れません。

 しかし、我々にあって老子の中に見出せないの「不安と疑念」です。
 私を含めて多くの人には常にどこかに不安と疑念が漂っています。その不安と疑念の原因は個人により、また時によりいろいろでしょうが、根本にあるのは「存在していることそのものへの不安」で、それがいろいろな形を取った不安、疑念として表れて来ます。
 老子の「常に足る」と言うのは「現状をそのまま受け入れる」ということだ、と言いましたが、より詳しくは「不安や疑念を伴わずにそのまま受け入れる」と言うことになります。

 では老子はどうしてそのような心の持ち方が出来るのでしょうか。
 それは老子の宇宙観から来るものと思います。老子の思想の中にはこの宇宙に対する限りなき信頼感があります。 「母にやしなわるるを尊ぶ」と言う言葉が第20章に出て来ますが、この母と言うのはこの私たちを生み出した大自然(宇宙)です。
 老子の「足るを知る」という言葉の背景にはこのような宇宙に対する絶対的な信頼感があります。
 「不安や疑念を伴わずに」ということは言い換えれば「宇宙に対して限りなき信頼感を持って」ということです。 

以上より老子の「足るを知る」の意味は「宇宙に対する限りなき信頼感を持って現状をそのまま受け容れる」という意味と解釈します。
 
 



 
by masaaki.nagakura | 2012-09-21 13:38 | 世界平和のための老子
世界平和のための老子(14)非戦論④ 尖閣列島問題に思う
 最近日本による尖閣列島の国有化に端を発して、中国に於ける反日運動が盛んになり、一方それに対する日本国内での反発や論議が激しくなってきています。日本と韓国の間では竹島の問題もくすぶっています。
 
 ここで老子の次の章を顧みたいと思います。
第61章
大國者下流。天下之交、天下之牝。牝常以靜勝牡。以靜爲下。
(大国は下流なり。天下の交、天下の牝なり。牝は常に静を以って牡に勝つ。静を以って下ることを為せばなり。)

訳:大国は大河の下流のように、万物が流れ下り、交流する場である。世界の中で受動的な雌の立場にとどまる。雌は常に静かでありながら雄に勝つ。 静かにして下にいるからである。

 尖閣列島や竹島を巡る騒動が老子や孔子を生み出した中国とその教えを深く受けてきた日本や韓国との間で起こっていることは実に嘆かわしい話です。
 遠く日中韓の歴史を振り返ってみれば、途中で幾度かは戦乱があったもののほとんどの時代は平和に過ごしてたし、文化的交流も続いて来ています。 これは戦乱が絶え間無いようにあった西欧とは随分異なるし、日中韓が共に誇るべきことでしょう。 
 島の一つや二つを取り合って争うのはあたかも仲の良いはずの兄弟が目前のまんじゅうを取り合って騒ぐのに等しいことではないでしょうか。かっての君子国が小人国になってしまっているのではないか、と思うのです。
 相互にいろいろ理屈はありますが、それをお互いに言い立てているだけでは対立感情がヒステリックにエスカレートするだけで、解決には向かいそうもありません。
 私は敢えて提案したいのは「尖閣列島も竹島も各国による共同管理の場所とし、その活用方法については協議して決め、実行する。」ということです。 「これらの場所を争乱の場所とするのではなく逆に国家間の融和の場所として活用する」ということです。
 
 老子の「大国は下流」というのは、国家なるものは相互に下流になる、という謙譲の意識を持つのが良い、という意味を含んでいる、と思うのです。 尖閣列島や竹島を相互に譲りあい、共同で活用する中から、新たな世界の潮流を創りだしていけないでしょうか。
 日中韓の合流するこの東アジアが世界を近代から脱皮した新文明の発祥の地となるように望む次第です。
 
by masaaki.nagakura | 2012-09-20 08:55 | 世界平和のための老子
世界平和のための老子(13)非戦論③ 足るを知る
 老子の道徳経81章の中では「足るを知る」という言葉が次の章に出てきます。

第33章(後半抜粋)
 知足者富、強行者有志。不失其所者久。死而不亡者壽。
(足るを知る者は富み、強(つと)めて行なう者は志有り。その所を失わざる者は久し。死して而も亡びざる者は壽(いのちなが)し。)

訳:足ることを知る者こそが富んでいるものであり、努めて行う者こそ志があると言える。自己の本分をわきまえてそれを見失わない者こそ久しく行動を続けられし、自己は死してもその魂が伝えられてゆく者こそ長い命の中に生きているものと言える。

第44章(全文)
名與身孰親。身與貨孰多。得與亡孰病。是故甚愛必大費。多藏必厚亡。知足不辱、知止不殆、可以長久。
(名と身と孰れか親しき、身と貨と孰れか多き。得ると亡うと孰れか病なる。この故に甚だ愛すれば必ず大いに費やし、多く蔵すれば必ず厚く亡う。足るを知れば辱しめられず、止(まるを知れば殆うからず。以って長久なるべし。

訳:名誉と身体はどちらが親しいものだろうか。 身体と財宝はどちらが大事なものだろうか。得ることと失うことはどちらが危ういことだろうか。それ故に極端に執着すれば、必ず多く費やす結果となり、多く蓄えれば、必ず多く失う。足るを知れば恥辱に合うことはない。とどまるところわきまえれば危うくない。長く久しく生きる。

第46章(全文) 
天下有道、却走馬以糞。天下無道、戎馬生於郊。禍莫大於不知足、咎莫大於欲得。故知足之足、常足。                     
(天下に道有れば、走馬を却けて以って糞(たづくり)す。 天下に道無なければ、戎馬、郊に生ず。禍(は足るを知らざるより大なるは莫く、咎は得んと欲するより大なるは莫し。 故に足るを知るの足るは、常に足る。)

訳:天下に道があれば、軍馬も田んぼで使われる。天下に道がなければ軍馬が戦争で郊外に引き出される。
 禍いは足るを知らないより大きなことはない、咎めは得ようと欲するより大なることはない。「足るを知る」という足る、というのは(物資の過不足にかかわらず)常に足る心をもつことである。

 これらの内第46章はこのブログの非戦論①に記したものの再掲ですが、特に「戦争の原因が足るを知らざることにある」という意味を含んでいるものです。
 この言葉が真理を語っているとすれば、「足るを知らざる限り戦争は起こる」ということになり、また「戦争を防ぐには人類全体が、あるいは少なくも大多数の人々が足るを知ること、が必要である」ということになります。そしてもしそうであるとすれば、戦争を防ぐためには自分を含めてですが人類の大多数の人が「足るを知る」ような思想を広めて行く必要がある、ということになります。
 しかし、現在の世界は経済的なグローバリズムが進行中です。 ほとんどの人々が世界経済全体の影響を受けて生活し、而もその経済的な環境の中で自らの生活を成り立たせていかなければならないのです。
 あるいはこのような状況のもとでは「足るを知る」という思想を持ったことによってこの経済的な環境に適応できなくなり貧窮に陥る可能性もないとは言えないでしょう。
 そこで次のことをもう少し突っ込んで考える必要があるように思います。
(1)老子いう「足るを知る」の意味は何なのか?
(2)「足るを知る」ことにより本当に戦争は無くせるか?
(3)「足るを知る」思想を世界に広めることは可能であろうか?
この問題に関しては稿を改めたいと思います。
by masaaki.nagakura | 2012-09-12 13:11 | 世界平和のための老子
世界平和のための老子(12)非戦論② 現在における戦争の可能性
 本論では現在の世界における戦争への可能性について考えます。
 第2次大戦に於いて日本が降伏した1945年からすでに67年が経過し、その間世界大戦はなかったものの、朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争等国家間、思想間の対立による戦争、民族紛争、宗教的な対立による紛争等が絶え間なく続いてきました。 
 日本について言えば戦争には未だ至っていないにしろ、北朝鮮との武力的な威嚇も伴う対立があり、最近では韓国、中国との領土問題をめぐる対立が嚴しくなってきているようです。
 このような対立がすぐに戦争に結びつくとは考えにくいのですが、やがてその対立がエスカレートして戦争に発展する可能性もないとは言えない状況です。

 私は戦争へ向かうときは次の意識が伴われている、という話をしてきました。

(1) 存在感への脅威の感覚
(2) 屈辱感からの開放を求める意識
(3) 共通の敵に対する敵愾心
(4) 国民全体を巻き込む共感
  
このような意識が2国間の間の両国民に顕著になってきた時には戦争に至る可能性が高まっていると見るべきでしょう。
 日本と韓国あるいは中国との間にはまだそこまでの意識はないと思いますが、一方でこのような意識を敢えて扇動しようとする動きもあるように思います。
 特に「共通の敵を創りだしす」というのはおそらく国家の指導者が国民を鼓舞し、団結させ、一つの方向に向けて行くために用いられてきた安易な方法です。
 国家の安定した存続が危うくなり、その指導者が批判の矢面に立たされているときには「共通の敵を外部に創りだしてそれに国民の注意を向けて、国家の統一を維持しよう」というのは指導者にとって退け難い誘惑になる可能性があります。 特に経済的困窮からくる不安、絶望感が社会に広がっている状況においては「共通の敵」を創りだそうとする指導者の扇動に國民の多くが乗せられて、戦争へと突き進んでいく可能性があります。 しかし、国家全体が経済的な困窮に陥ってしまうと戦争して勝利する可能性もなくなり、従って戦争に至る可能性も少なくなります。 より戦争に向かいやすい状況というのは国家の中に経済的な困窮に陥っている人達が増えてきて社会全体として未来への不安が高まっている状態で、且つ国家としては戦争をするだけの経済的、軍事的な力を持っている状態です。このような状況は日本、韓国、中国、北朝鮮の何れでも起こりえます。 歴史が示す通り、経済は好況と不況の小さな波、大きな波があり、その大きな不況の波が訪れる時に最も大きな戦争への可能性が発生すると考えられるのです。 
 実際 第2次世界大戦の前には世界好況に継いで日本、ドイツ、イタリアなどの当時の同盟国は何れも経済的困難に直面しており、それが第一次大戦を引き起こした一つの原因になっていたことは否めないでしょう。 現在でも同じような経済的な局面が発生し、それが新たな戦争の引き金になると言う可能性は否定出来ないでしょう。
 ただし、第一次大戦の当時と現在では国際情勢に著しい変化があり、単なる経済的な問題が戦争の要因となる、という考え方も成り立たないと思います。 一つの大きな変化は国際間の人々の行き来が多くなり、海外での生活や旅行の経験者は著しく増えていることです。日本では第一次大戦に駆りだされた人々の中には外国人を観たことのない人も多く、米英鬼畜というような敵愾心を煽る言葉に駆り立てられたのですが、現在では誰もそのような言葉には載せられないでしょう。またグローバリズム化は国家間の経済的な障壁を取り除いてきており、国家というものの存在感を希薄にしつつあります。
 こういう状況から、経済的困難が戦争に直結するという危険性は第2次世界大戦以前に比すると相当少なくなっていると考えられます。
 しかし、長期的に観た場合にはエネルギー源の枯渇や地球温暖化による気候的、地理的変動の影響が全世界的に未来への不安、経済的な逼迫をもたらし、それが何かのきっかけに戦争に発展する可能性は否定できません。 
 
 
 
by masaaki.nagakura | 2012-09-03 13:17 | 世界平和のための老子