自在心の探求3 自在の起源
タイトルに自在という言葉を使ったのは、私が時々唱えている般若心経に出てくる観自在菩薩のイメージからです。この般若心経には「何ものにも束縛されない自在な心の姿」が表されている、と思います。
でも実際にそのような自在な心の状態に成りきるのは極めて難しいのです。少なくも私にとって至難のわざです。そして多分私以外の多くの人にとっても難しいのでないか、と思います。
もし簡単に自在な心が得られるなら、何も「自在心の探求」などするには及ばないでしょう。
余談
観自在菩薩が観世音菩薩と同じだと教えて下さったのは元東京外語大学のベンガル語の教授であった奈良毅先生です。私が観音経と般若心経を唱えている、と言ったら、そのように教えて下さったのです。私はそれまで観自在菩薩と観世音菩薩は別のイメージでとらえていたので少し驚きました。そしてその話に若干の疑問も抱いてきました。ところが最近読んでいる「観音の来た道」(鎌田茂雄著)によれば、インドから伝わった法華経の翻訳をした鳩摩羅什が観世音菩薩と訳したのを玄奘三蔵が観自在菩薩と読み替えた、ということです。インドからの原語(サンスクリット語)のアバローキテーシュバの意味は「拝まれる最も尊い自在の力を有したもうお方」という意味だということで、それなら確かに観世音というより、観自在ですね。
とにかく観世音菩薩と観自在菩薩が本来同じ菩薩であることは確認出来ました。
私の知る限り観自在菩薩という菩薩の名は般若心経にしか現れてきません。
東アジアにおいて観世音菩薩は絶大な信仰を集めていて、多くの観音像が拝まれていますが、観自在菩薩像が拝まれている、という話はあまり聞きません。
サンスクリット語の訳としては玄奘三蔵が訳した観自在菩薩が正しいのに東アジアて普及したのは観世音菩薩であったのは何故でしょうか?また鳩摩羅什が敢えて観世音菩薩と訳したのは何故でしょうか?私は鳩摩羅什が観音経全体の意味を汲んで観世音菩薩と訳したのでないか、と思います。観音経の中で観世音菩薩はその名を唱えた全ての人を救済すると、されています。このことはこの菩薩が信仰を集める由縁で、そのことに着目すると観世音菩薩という訳はいかにも相応しいです。
さて般若心経の観自在菩薩と観音経の観世音菩薩が同じ菩薩として、この二つの経典にある共通点は南でしょう?
私はそれが「無畏」ということでないか、と思います。
この事に関しては稿を改めます。
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by masaaki.nagakura | 2014-10-05 06:13 | 自在心の探求
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