比企の活性点(4)飯田神社
現在の日本全国での神社の数は約8万で人口は1億2800万人ですから神社が1600人に1社あります。 
ところで日本全国の神社数が8万というのは明治時代に行われた合祀政策(神社の統合を図る政策で1906年の勅令により進められる)により少なくなったからで、それ以前は20万ともいわれています。
さて、江戸時代中期には人口は3100万人程度で神社が20万とすると、155人に1社の割で神社があったということになります。 
これは当時の大部分の人々の周りに身近に神社があったということを意味します。

私の住んでいるのは小川町飯田というところですが、ここには小高い丘の頂上に建てられた飯田神社と通称される神社があります。この神社の存在はそのように人々が神社に身近に暮らしていた時代の有様を彷彿とさせるものがあります。
この飯田神社は毎年数回恒例の行事がなされ、その伝統が飯田地区自治会によって廃れることがなく継続されています。
次は元日の飯田神社の風景です。
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焚火を囲んで歓談です。社務所ではお神酒を飲み交わします。
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この神社は飯田神社と言われますが、同じ境内に写真の本殿とは別棟で津島神社と日枝神社と書かれたお札を祭った社があります。上の写真では本殿の右側の奥に見えるのがそれです。そして本殿の方は金毘羅様と呼ばれることがあります。このように分かれているのは合祀政策の結果と聞いています。多分それぞれ別のところにあったのをこの場所にまとめて飯田神社という名前にしたのではないか、と推定しています。
私が好きなのは本殿の裏にあるこの火光天の石碑です。火の神様ですが、火災を防ぐということで毎年「火光天のお札」というのが地元の人々に配られます。
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毎年薪を大きく燃え上がらせる火祭りが行われます。次は火祭りの火を背景に獅子を撮ったものです。
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参考1.神社数の人口に対する割合:比企地方(東松山を含む)には神社が197あり、また埼玉県の人口は23万3千人くらいですので神社が大体1180人に1社あることになります。(下注参照) 日本全国での神社の数は約8万で人口は1億2800万人ですから神社が1600人に1社あります。 その意味で比企地方は神社数の割合が全国平均よりは大分高いです。(私がネット情報から調べたところでは全国で神社数の人口比の最も多い県は高知県で350人に1社、最も少ない県は大阪府で11900人に1社です。なお沖縄県は大阪府よりさらにずっと少ないのですがこれは歴史的に神道の習慣がなかったためと考えられ、比較の対象とはできないでしょう)次は埼玉県庁のホームページから抜粋した比企地方の人口と神社数の関するデータです。参考のためにお寺の数も入れておきました。
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参考2.金毘羅様、日枝神社、津島神社の関連
 飯田神社に祭られている3つは全く独立にあったものは合祀政策で一か所に集められたのだろう、と思っていたのですが、ネットで調べてみるとこの3つは根っこのところで繋がっているようにも見えます。
それはいずれも大国主の命につながっていると考えられるということです。
 まず金毘羅様というのは金毘羅宮(別名琴平宮)であり、そこで祭られている神は大物主命です。
 そして大物主の命は大国主命の和魂(同一の神に荒ぶる神と和らぐ神との2面性があり、和魂は和らぐ神)と言われているようです。
 日枝神社は「大山咋命」と「大物主命」の両神を祭っておりやはり大国主命につながっています。
 一方津島神社はスサノオの命と大国主命を祭ります。
 従って、この3つの社に共通にあるのは大国主命ということになります。
 これは単なる偶然かも知れませんがこのようなことを考えてみるのも興味深いです。


参考3.神社の碑が語る養蚕の歴史
この飯田神社の境内にはこの地方の養蚕の歴史を語る興味深い碑があります。
既にこのブログで紹介しましたが、再掲します。
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この碑文の内容は以下です。
蠶桑之碑
「明治42年笠原方宜氏等が相談して、養蚕技術の改良を目的に組合を創設し、指導者を招いて、組合共同の桑畑と繭飼育場を設けて改良を続けた結果、業績が大いに上がって、著しい進歩をみた。埼玉県はこれを模範とすべく、数回に亘って表彰し、賞金さえ下賜された。 時は繭の価格が15円という好景気の状況であり、組合の利益を運用し、肥料の共同購入等も行うに至った。 しかし時代は急転し、繭の価格が2円前後にまで低落した。この不況を打開するために努力を重ねたが、効果を得るに至らず、やむを得ず桑畑を伐採し、麦畑に変えた。 しかし不況が七年続いた果てに神は我々を見捨てることなく、支那事変が勃発し、次いで欧州大戦が起こり、その結果糸の価格は1700円に急騰し、金融が復活した。ここにおいて組合の財産を整理して、組合員に分配し、銃後の後援の資金に充て、ひとまず解散し、新たに実行組合として立ち上げ、養蚕を通じて国に報いることとした。 繭の増産は農家の経済を豊かにする基礎となり、延いては武運長久の礎となる。 繭は飛行機や軍艦を生み出す。この時に糸の価格が急騰したのは天の助けか神の恵みか。以上の顛末を右に刻んで、永遠の記念とする。 昭和14年秋。

原文:明治四十二年笠原方宜氏等相謀り養蚕改良を企て、組合を創設し、指導者を招き従来の飼育法をかへ、組合共同桑園並びに繭圃を設けて益々改良する所ありしに、業績大小挙がり、著しき長足の進歩を見たれる模範とし、縣より表彰を受けること数回、金一封の下賜さえありた季、時恰も繭価十五円を称ふる好況なりしに組合の利得若干を運用し、肥料共同購入の普及を計りたり。然りと雖も時代の嵐有る毎に平調ならず、急転直下繭価二円内外に低落、不況打開のための画策これ努めるも功を見ず、已むなく桑園伐廃して麥園としたるも経済界の眠るが如く不況七年、神は吾人を見捨てず、支那事変勃発に次ぐ欧州戦乱の結果、俄然糸価千七百円に急騰、金融は復活を見る。茲に於いて蓄財を整理し、組合員に分ち銃後後援の資に充て、一先ず解散、新たに実行組合として更生、蚕業報国の実を挙げんとす。繭の増産は農家貨殖の基、延いては武運長久の礎、繭は飛行機を生み軍艦を産む。此の時糸価急騰せるは天の助か神乃恵か顛末を右に勒し、永遠の記念とす。
             昭和十四年秋  悟堂撰並書 

ここには歴史の荒波の中で翻弄される農家の姿も見えて切ない思いもさせられますが、一方このような情念で歴史が動かされてきた、ということを真正面から見ることで未来を志向するうえでの一つの教訓としても捉えておきたいと思います。
それにしても飯田神社は私にいろいろなことを教えてくれます。
by masaaki.nagakura | 2013-01-05 15:32 | 比企の活性点
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